さよならブルータス
秋も深まったある日の会社帰りに喫茶店で友人とお茶をする。よくあるOLの風景。
ここから出たらまたお互いの日常に帰っていく。カフェオレとケーキで談笑しながらしばし至福のとき、のはずだった。
「彼の奥さんに手紙を書こうと思うの」
その言葉を聞くまでは。
思わず飲んでた水を吹き出す。
そんなことも気にせず友人は言葉を続ける。
「彼が離婚しないのは子供のことがあるって。わたし、その子を引き取って彼と育てて3人で暮らしてもいいと思ってるの」
少し年上の友人は、上司に恋をしていた。
普段聡明なはずの美人の友達の口からそんな言葉が出てくるのが信じられなかった。
相手の男はどんな顔をしてそんな言葉を言うのか。友人には甘く美しく聞こえるのだろうか。
深いため息をつく。
「そんなに好きなの?」
そう聞くと、友人は嬉しそうに彼のどこが好きか、どんな顔で笑うか、どんな話をするかどこか寂しそうな顔で語るのだった。
側から聞いてるとくだらない三文小説の馬鹿げた台詞にしか聞こえない。何もかもが陳腐で今すぐにでも放り投げたくなった。
かなり子煩悩なパパで通っているその男と友人が不倫をしてると聞いた時、世の中には小説みたいなことがあるんだなと思ったのが1番の感想だった。
彼女の上司であるその男はわたしと同じ課の先輩の夫であり、その男が割とうまく人生を生きていることをわたしは知っていた。少なくとも奥さんが子供を手放すはずがないことは火を見るより明らかだし、社内でも有名な仲良し夫婦だった。
さぞ上手いことを言って繋ぎ止めているのだろう。あの男がそんなことを言うなんて信じられないなと思いながらも、なんかどこか軽薄な感じがするのはあながち悪くない見立てだったな、と我ながら感心する。
どうしてだろう。
ちっとも幸せじゃなさそうな顔して、幸せを語るなんて。なんてホラーな映画を見ているみたい。
片目だけ目を閉じて笑っているようなそんな不自然さがあった。この人がこんな破戒的なことを言うなんて。美しく聡明なこの友人が大好きだったなとなぜか過去形で思い、そのことを悲しく感じる。
友人の不倫は相手の男が単身で海外に行ったところから始まっていて、はじめて話を聞いた時はすでに長い付き合いになっていたから、奥さんに手紙を書きたくなる気持ちも分からなくもなかった。
だがその話を聞いてからなぜか友人の魅力がどんどん失われていくような気がしていた。
不倫なんて、自分の人生と向き合わないでいる都合のいい逃避だと思う。良いとか悪いとかじゃないし、好きなだけ逃げてれば良いし、人の気持ちは縛れない。それでもどこかわたしからは遠いところにあり、この友人の話を聞けば聞くほど身体の中にため息が積もる。
なぜ、その男の人生の陰にこの人が向き合ってるのだろうかと思うと悲しい気持ちになった。
オマエもか、と思う。
もっと、と言いかけて口をつぐむ。
好きでやってるのだろうけど。
そういうことであれば誰にも何も言えないのだけど。
「手紙を書くのはやめたほうがいいと思う」
そういうと、悲しそうな目でこちらを見た。
「わたしがもらったら、嫌だと思うから。」
そう言ってこちらが目を伏せた。
もし自分がそんな手紙をもらったら、正直勝手にやってくれという気持ちになると思う。
相手の不倫に薄々気がついてたとしても、折り合いをつけて生きているかもしれない毎日に、決定的な証拠を突きつけて、その心を壊す権利など誰にもないのだった。
他の人にいつも優しいと言われるこの年上の友人が、そんなことも分からなくなるほど、この恋は魅力的なのだろうか。考えれば考えるほどため息しか出なくなるのだった。
「もう帰ろうか」
どちらからともなくそんな風に言い席を立つ。
こうして2人でお茶をするのはもう最後かなとなんとなく思い、そのことがなんとなく申し訳ない気持ちになって黙って地下鉄の入り口まで歩く。
「じゃまたね」
そう手を振った先に太った月が浮かんでいた。
おわり
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