３０ 本質への回帰 【小説】
市街から抜け出る何処までも直線の太い幹線道路は、幾つもの赤信号が短い間隔で連らなっていた。
「長いな・・・」
涼介は目の前の赤信号に少し苛立ちながらそう呟いた。
「またか・・・」
走り始めたと思った矢先、三つ先の信号が黄色に変わっていた。
早く自宅に戻りたい衝動に駆られている涼介は、普段体感している光景であるにも拘らずストレスを口にしていた。
「ほんと、雨とデブと赤信号は・・・嫌い・・・か・・・」
前方の車がそれぞれのブレーキランプを点灯させ始めた時、涼介はそう呟きながら車線を変更し、ブレーキを少し強く踏んで左ウインカーを点滅させた。
助手席のガラス越しはなだらかな丘になっていた。その丘の先に、涼介の自宅があるマンションの上層部が見えていた。
（ふうっ・・・全まったく・・・デリカシーが無いのは俺じゃないか・・・）
自宅へ帰る迄に通過する最後の信号で停車していた涼介は、ヘッドレストに頭を持たせ掛け、苦笑いを浮かべ、言い放とうとした口癖に、今までの〝痛い〟自分を思い出して鼻で笑い、蔑んでいた。
「・・・休みなんだからゆっくり休むもんだぞ・・・ん？・・そうか？・・何か日本語変だったか？」
涼介はマンションの地下一階に在る駐車場を歩きながら恭子の笑い声を耳に当てていた。
「まぁそういう事だよ、ご苦労さん・・・了解、それじゃ明日改めて」
エントランスの奥に在るエレベーターホールで涼介は恭子との穏やかな会話を閉じた。
マンションの駐車場に車を潜り込ませ、所定の位置に停めた後、開封していなかった恭子と魚町店店長のメールを運転席で目を通していた涼介は、そのまま車の中で店長に電話をし、続け様に恭子に電話を掛けていた。
（立ち会ってたのかよ・・・ふふっ・・岡部らしいな・・・）
エレベーターに乗り込み八階フロアのボタンを押した後、一息つくように壁に寄り掛かっていた涼介は、休日出勤をして魚町店の厨房補修工事に立ち会い、その結果を然り気無くメールで報告し、電話ではそんな自分の行動をアピールする事無く終始笑い声を絶やさなかった恭子に、穏やかなるリーダーとしての資質が備わっている事を改めて感じ、敬意を表する微笑みを浮かべていた。
「？・・・」
目の前に長く延びている室内共用廊下に靴音を遠慮っぽく響かせていた涼介は、右手に持ったままだったキーケースの釦を玄関ドアの前で弾いた後、徐に動きを止めた。
ドアレバー近くの隙間にメモ紙の様な物が挟まっていた。
（何だろう・・・）
涼介はその紙に手を伸ばした。
スポットライトが玄関を照らし、ドアの前で動かない涼介の背中を照らしていた。
「あいつ・・・」
涼介は二つ折りにされていた紙に書かれていた文字に、そう一言呟いた。
「〝どこにいるのー！？〟・・・か・・・」
ソファの背凭れに上着を投げ掛けた涼介は、キッチンに向かいながらエリカの口調を真似る様にメモに書かれてあった言葉を呟き、ダイニングテーブルの上にキーケースとメモを置いた。
「参ったな・・・」
涼介はそう声を出し、冷蔵庫の扉を開けてウィルキンソンに手を伸ばした。（まったく・・・）
午後のメールではメモの件に一切触れず、昨夜から電話もせず、合鍵を持っているのにシリンダーにキーを差し込まず、玄関ドアの隙間に会いたい気持ちを差し込んでいたエリカの行動に涼介は魅力を感じ、愛おしさを募らせていた。
リビングは何時もと変わらない表情で涼介を包み込んでいた。
キッチンからコーヒーのドリップ音と柔らかいコーヒーの香りが届いていた。
涼介は体をソファーに深く沈み込ませ、センターテーブルに足を投げ出し、落ち着く香りに包まれながら、誰にも邪魔をされない一人の時間に身と心の回復と修繕を委ね、癒しを享受していた。
「そうだ・・・」
昨夜、車の中に置きっ放していた携帯電話をコンビニエンスストアの駐車場で開いた時、メール以外に純一からの着信が二度残っていた事を涼介は思い出していた。
「もしもし・・・」
涼介はマグカップにコーヒーを注ぎながらそう言った。
「・・・はいはい・・・どうよ？・・・まぁ、普通かな・・・」
マグカップに一度唇を当てた涼介はそう言った後、ゆっくりとソファーに座り、センターテーブルに足を投げ出した。
「・・・そうそう・・・だよなぁ・・・ああ、いいんじゃない」
涼介は純一と交わすスローな会話が好きだった。
思いや願いは、意図せず通じ合っていた。
「了解・・・ああ、そうだね・・・そういう事かな・・・」
培って来た二人の関係だけにしか成立し得ない、主語の無い会話に涼介は夢中だった。
「・・・はいはい・・・じゃ、よろしく」
涼介は切った電話を自分の胸の上に置き、瞳を閉じていた。
想像や妄想は、涼介の顔をだらしなく緩ませていた。
「そっか・・・悪くないな・・・」
純一の言葉を心で整理した後涼介はそう呟き、センターテーブルに投げ出していた足を下ろして右腕に目を遣った。
（５時４０分か・・・シャワー浴びなきゃだな）
エリカを迎えに行く迄の残り時間を確認した涼介は立ち上がった。そして思いを行動に移す前にリビングの掃き出し窓に向かった。
小倉の街は夜を迎えていた。
空には昼間の明かりが名残り惜しそうに微かに残り、その薄明りをバックに街の光が静かに瞬いていた。
「このまま止んでくんねぇかな・・・」
ベランダに出ていた涼介は、目に映る雨が音も無く細くなっている事に期待を込めてそう言った。
コーヒーの香りはユーティリティまで届いていた。
洗面台の廻りにはエリカのグルーミング道具やTシャツが無造作に置かれていた。
（・・・なかなかいいんじゃない？）
涼介は服を脱ぎながら振り返っていた。
（いいじゃん・・・）
圭子とエリカを並べてイメージしていた。
（なるほどな・・・）
更に涼介は圭子とエリカの横に純一と自分を加え、四人が食事をしているシーンをイメージしていた。
（〝彼女連れて来いよ、四人で飯でも喰おうぜ〟・・・か・・・）
涼介はシャワーを浴びながら、久し振りに中華街で年を越さないかと持ち掛けて来た純一の電話での言葉を再度思い返していた。
（圭子と会うのは何年振りになるんだろう・・・）
涼介が圭子の顔を涙で曇らせた日から５年が過ぎていた。そしてその５年という年月の間には、圭子と純一が夫婦として今も穏やかに重ね続けている１年半が織り込まれていた。
「！！・・・」
涼介は〝はっ〟とした。
ぬるいシャワーが背中を打ち付けていた。
圧は強く、背中を打ち付けていた。
「そっか・・・」
徐に身体を回した涼介は、顔でシャワーを受けた。
少し俯き、微動だにしなかった。
及ばない客観と情けない自分の思考に強い衝撃を受けた涼介は、シャワーを浴びている体を動かせなかった。
（何やってんだろうな全まったく・・・どこまでもぬるいじゃねぇか・・・何で自分の事しか考えらんねぇんだよ・・・）
純一の提案は圭子の賛同がなければ成り立たなかった。無惨にも傷つけ、愛情を蔑ろにいし、身も心もズタズタに傷つけた圭子の賛同がなければ有り得なかった。そんな醜態を晒した自分の過去をのほほんと遣り過ごし、切り抜けた局面を手前勝手に昇華し、それを都合良く消化している事にやっと気付いた涼介は、ぬるいシャワーとぬるい自分を拒否するように温度を上げ、もう一度背中に熱いシャワーを受けながら天を仰いで一つ息を吐き、あらゆる事態や状況を察し、目の前に居る相手の意図を察し、その側で繋がる人の心を察する事が今だ不得手な自分を嘆いた。
（・・・・・）
圭子は涼介の曖昧な恋心に因って心に深く鋭利な傷を残していた。しかし中華街で年を越そうという純一の提案を受け入れていた。それは圭子が持っている涼介へのわだかまりや極端な嫌悪を、遠い昔のやんごとなきほろ苦い思い出として水に流し、燻り続ける火傷を心の中の別次元の場所で消火し、平穏という、掛け替えのない空間まで昇華させた事を意味していた。
涼介は圭子の心に一生残るかもしれない傷を付けていた。圭子にとって当然それは許し難い過去だった。しかし圭子は涼介が過去の恋愛に対する懺悔の気持ちを事ある毎に心から引っ張り出し、一生引き摺り、苛まれ続ける事も許さなかった。
（まだまだだな・・・）
涼介は電話口の純一や、通話中ずっと側に居ただろう圭子という、自分の性格を知る二人から慮られている事実に、改めて自分の生き様が甘くぬるく情けない事を痛感させられていた。
涼介の自宅にはエリカの物が溢れていた。リビング、キッチン、玄関ホール、バスルーム、パソコンの横にもベッドの上にも微笑ましくなる程ほどエリカの物が散乱していた。クロゼットの中にもチェストの中ににもエリカの物が存在感を示していた。
（そっか・・・まあ・・・そういう事なんだろうな・・・）
シャワーを浴び終えた涼介は、部屋に馴染むエリカの物を見遣りながらバスタオルを腰に巻き、ソファーに身体を沈み込ませた。
何時もならとっておきの時間だった。
リフレッシュという、気力や意欲を蘇えらせる美しい時間だった。（・・・・・）
深い自我の下、愛情の在り方を確立して突き詰め様とするが故にその愛情を客観し過ぎていた涼介は、気付かぬ内に愛情が持つ本質から遠ざかっていた。しかし涼介は圭子や純一の思い遣りに触れ、まゆみやエリカに触れ、愛情そのものを素直に振り撒いていた頃の自分を思い返し始めていた。
（何時からこんな風になっちまったんだろう・・・）
涼介は瞳を閉じ、圭子や純一、まゆみやエリカに感謝していた。同時に四人との出逢いをくれた、必然や偶然という、言葉で片付けるには余りにも運命的過ぎる、奇遇や奇跡と称する、突き詰めればいつの日か量子力学や物理学的論理で説明出来るかもしれない、しかし暫くは人の五感に決して触れる事はないだろう何かに感謝していた。
（愛情ってのは何時でも容易く取り出したり受け取れたりする場所で宿ってんだよな・・・）
涼介はコーヒーを飲み干した。
「難しくも何ともねぇじゃねぇか・・・」
涼介はそう呟き、携帯電話に手を伸ばした。
（出会い系か・・・）
打算的だった自分を省み、失っていた大切な感情を蘇らせていた涼介は、何かを懐かしむ様に携帯電話にブックマークされたままになっていた出会い系サイトを開いた。
（・・・〝包容力〟・・・〝安心感〟・・・〝同じ価値観〟・・・〝優しさ〟・・・〝嘘を付かない人〟・・・）
涼介は殆の女性が掲示板に書き込んでいるそんな言葉を目で追いながら、時に図々しく、時に馴れ馴れしく、過剰な自虐の下、女性の気持ちなど丸で考えず出会い系サイトを泳ぎ続けていた頃の自分を思い起こしていた。
（・・・〝煙草を吸わない人〟・・・〝髪の毛の薄くない人〟・・・〝太ってない方〟・・・〝背が高い人〟・・・）
涼介はスクロールしていた。ただ、淡々とスクロールボタンを押し続けていた。
（・・・〝若く見られます〟・・・〝彼氏が居る様に見られます〟・・・〝仕事が忙しくて出会いがありません〟・・・）
涼介はソファに体を投げ伸ばした格好で身動き一つせず左手の親指と目だけを動かし、女性達の思惑を黙々と追い続けていた。
「ふう・・・」
キッチンにしては多過ぎるダウンライトの光が、隣の暗いリビングのソファで寝そべる涼介に真夏の太陽の如く煌煌と降り注いでいた。そしてしそのキッチンの光は、雪が深深と降り積もる真冬の夜の様な静けさで涼介を包んでいた。
「・・・ふぅ」
涼介は身体を起こし、何かを見切った様な大きな息を唐突に吐いた。そしてその気になれば何時までも表示出来る出会い系サイトの掲示板を閉じた。
「ぬるいな」
涼介は呟いた。
（ふふっ・・・しかしまぁ・・・それは俺だよ・・・）
愛情の本質など知る由もなく、しかし知らない間に愛情の本質を体中から溢れさせていた時代に回帰していた涼介は〝ぬるい〟と呟いた自分を冷笑して携帯電話の時計を見た。
「時間だ」
身も心もエリカとのデートに集中する為に涼介はその言葉を毅然と放ち、立ち上がった。
涼介は出会い系サイトをスクロールしながら反省という、同じ過ちを何度も繰り返さない為の誓いを心の中に導いていた。そして女性達が掲示板に残している男性への要求が、欲望を満たす為のプライド高き傲慢にしか見えなくなっている自分が居る事を冷静に見つめていた。更に涼介は、思慮深く広い心で人を受け入れる事を包容力と言うのなら、気に掛かる事が無くなり心を安らかにする事を安心感と言うのなら、相手の気持ちや立場を考える事を思い遣りと言うのなら、上品で美しい、素直で大人しい、親切で情が深く、ごつごつしていない柔らかい感情を優しさと言うのなら、事実ではない事を言う嘘が嫌いだと言うのなら、そしてその中の一つでも誰かに求めるのなら、普段の生活の中でそれら全てを先ず自分が率先して不特定多数の人々に示す必要がある筈だと、そしてそれこそが掛け替えの無い出逢いや珠玉の恋愛を享受する為の道理なのではないかという思いを心の中に引き入れていた。
〝ウィーン・・・ウィーン〟
「・・・ん？」
その振動はウォークインクロゼットに向かおうとしていた涼介を振り向かせた。
「ふぅ・・・」
センターテーブルの上で二回振動して止まった携帯電話に涼介は直ぐ手を伸ばさず、天井に向かって大きな息を一つ吐いた。
■受信メール■
愛？・・・何？？^^
そんな事ずっと前から知ってたよ
でも今夜もう一度言って💕
■エリカ 2003/10/19 18:20■
（あいつ・・・）
涼介は久し振りに自分の鼓動を全身に感じていた。
「まったく・・・」
涼介は自分の顔が〝照れ〟に因ってだらしなく緩んでいるだろう事を誤魔化す様ように呟き、崇高で尊い命の全てに与えられた〝愛情〟という、どんなに酷使しても壊れる事のない、しかもどんな命をも決して傷付ける事の無い武器でエリカに心を射貫かれ、自分が救われた事を実感していた。
（・・・さて、と）
涼介は誤魔化した羞恥を態とらしく区切り、身支度を整える為に踵を返した。
ソファにはバスタオルが放り出されたままになっていた。
キッチンのダウンライトは主の居なくなったリビングを照らし続けていた。
ダイニングテーブルの上には空になったウィルキンソンが無造作に置かれていた。そしてその傍で、昨夜エリカが残したメモがキーケースの下敷きになっていた。
#創作大賞2024
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#ぬるい恋愛
ぬるい恋愛✉〝情熱という、理想というmelancholy〟
美位矢 直紀
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