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25  不純な純粋   【小説】




 映画館を出た二人は、立ち並ぶビルに隠れているだろう落日が染めた朱色の空を真正面に見ながら、太陽の橋を渡ろうとしていた。
「男は愛さなくなった女に嘘を言うって、本当?」
 手を繋ぎたい衝動に駆られながら涼介の右側を歩いていたまゆみは、きっかけを作る為に何となく覚えていた映画のワンシーンを悪戯っぽく聞いた。
「・・・その愛に因るんじゃないかな」
「ふーん・・・」
 まゆみはそんな笑顔での返事の裏で〝今此処で涼介の腕に体を巻き付けた方がいいのかな〟と考えていた。
「男は愛してる女性にも嘘は言うよ」
 晴れやかな顔のまま黙っているまゆみに涼介はそう付け加えた。
「えっ?」
「・・・悲しいけど、俺は嘘の無い恋愛をした事が無いんだ」
 涼介はまゆみの笑顔に誘われる様に一度微笑み、更にそう付け加えた。「・・・そうなの?」
「恋愛に正直だと危険なんじゃないかな」
「危険?」
「・・・女性の化粧と同じだよ」
「化粧?」
「安心するでしょ?」
「・・・そう・・・よね・・・」
「失礼、ちょっと意味が違ったかな」
「・・・・・」
 ささやかな願いを叶えるきっかけが欲しかっただけのまゆみは、自分の何気ない質問が会話として続き始めた事に戸惑い、涼介の例え話にも戸惑い、少し焦り、笑顔を消していた。
「女は愛し始めたら男に嘘を言うっていうシーンもあったよね、さっきの映画」 
 黙ったまま喋らないまゆみに涼介は問い掛かけた。
「・・・うん・・・あったね・・・そんなシーン・・・」
 涼介が放つだろう次の言葉にはしっかりと自分の意思を乗せ、涼介を満足させなければとする観念に囚われていたまゆみは、恐る恐る相槌ちを打った。
「まゆみは俺に嘘をついてる?」
 二人は太陽の橋を渡り終え様としていた。
 眼下を流れる紫川は文字通り紫色に濁っていた。
 涼介はまゆみの答えを待たずに正面へ向き直っていた。

 薄暮を過ぎた小倉市街は至る所で渋滞していた。
 市営の地下駐車場から車を街並みに戻していた涼介は少し困ろうとしていた。(・・・しょうがない、場所を変えよう)
 渋滞で苛つく事を良しとせず、そんな感情とは裏腹の顔をまゆみに見せる事も良しとしない涼介は、魚町交差点を通り過ぎる事を諦め、一つ手前の信号で左折して西小倉駅へ続く道に車を乗せた。
「・・・イタリアンでいいよね?」
 結果的に大きくUターンする事となった長い沈黙の中で、涼介は行く筈だった和食店の予約キャンセルを出来るだけ早く、丁重にしなければと考えていた。
「うん・・・」
「了解」
 西小倉駅前の交差点は意外とスムーズだった。
 小倉城を左に見る通りは、街路樹の葉が信号機を覆い隠してしまう程せり出していた。
 大手町に向かう為、涼介は車を紫川沿いの並木通りに乗せようとしていた。
「・・・・・」
 まゆみは躊躇う様にGO-STOPを繰り返す車の中で、涼介に喋り掛ける事を躊躇っていた。
「・・・どうした? 元気ないじゃない?」
「ううん、普通だよ」
 映画を見た後の然り気ない会話の中で、涼介の問い掛けを上手にあしらえず、手を繋ぐ事すら出来なかったまゆみは少し落ち込んでいた。
「そう・・・ならいいんだけど」
「おなか空いちゃった」
 まゆみは気持ちを切り替え様としていた。
「そうだね、了解」
 涼介は手前勝手な自己都合という、失礼極まりない判断基準で自分の心の状態を保った後ろめたさ故、まゆみを何時もとは違う立ち居振る舞いでもてなす事を考えていた。
「ごめん、あんなに渋滞してるとは思わなかったよ」
 涼介はそう言って静かな車内の空気を動かし、まゆみが喜び、高揚する様な手段を算段し、普段通りの姿の中に奇抜な一面を段々と加え始めた。
「・・・でもそれは涼介のせいじゃないよ」
「ありがとう」
「うん・・・」
 市街から抜け出し、大手町の閑静な住宅街を抜け、マンションが立ち並ぶ大通りの路上パーキングに車を停め様としていた涼介は、まゆみの思い遣りに少し感激したような感覚を醸して感謝していた。
「・・・好きだよ」
「えっ!・・・」
「あそこだから」
 涼介はまゆみの意表を突き、手段を実行し、柔らかな笑顔をまゆみに贈った後、さらりとその場面を流した。
「・・・うん・・・」
 まゆみは涼介の思い掛けない言葉に勇気を貰っていた。

 歩道を挟んだパーキングエリアの真横には、成功者の優越を象徴しているかの様に聳えるマンションがあった。一階は全て店舗で流麗に間仕切られていた。涼介はその中に在る、女性に評判だというイタリア料理店に入ろうとしていた。
「じゃ、行こうか」
 車から降り、助手席側に回り込んでいた涼介は〝キュキュッ〟っとハザードランプを二度点滅させた後、歩道に降りたばかりのまゆみにそう言って手を差し出した。
「!!・・・ありがと・・・」
 思いも寄らない涼介の紳士に、まゆみは照れを隠す様な仕草で徐に、しかししっかりと手を握った。
 たった数メートルの距離でも、それが数秒で終わるとしても、涼介と手を繋いで歩ける珠玉にまゆみの胸は高鳴っていた。

 2004年の3月、涼介の会社は大手町に在る商業施設の一角にイタリア料理店をオープンする予定だった。涼介はそのプロジェクトのリーダーとして大手町界隈の市場調査を指揮していた。そして自らも五感を駆使し、集めた情報を篩い分け、チームが集約したデータに融合させ、論理立てた方向性や戦略を客観的に検証し、新店舗の柱とする不変のコンセプトを創り上げる作業の真っ只中に居た。
「じゃ、ハウスワインの白を。少し甘いやつを下さい・・・いいよね?」
 涼介は仕立ての良い白いシャツの襟を立て、綺麗な姿勢で立っている女性スタッフにそう告げた後、正面に座っているまゆみに確認した。
「うん」
 まゆみは笑顔で頷いた。
「・・・ね、どうして私に選ばせたの?」
 相談しながらではあったが、料理を自分で選び、注文し終えたまゆみは涼介に聞いた。
「まぁ、それはさ・・・すみません、それとバジリコのフェットチーネをスモールサイズでお願いします・・・そうだね、まぁ、そんな気分だったんだよ」
 メニューに目を落としていた涼介は女性スタッフがオーダーを復唱している途中に料理を追加し、まゆみにそう答えた。
 涼介は近い内に一度、この店の料理の見た目や味を自分一人で確かめに来ようと思っていた。そしてその時の吟味をチームスタッフと共有し、必要なら再度訪れて細部の確認をする事迄考えていた。しかし現実はその人気店の料理をいかにも〝嗜み〟に来たかの様な、しかもまゆみとの小倉での初デートで訪れる事になるとは毛頭考えてもいなかった。
 渋滞の苛立ちを排除する為に思い付いた成り行きは、職業意識の下にある不埒な一石二鳥という、何処迄も自己都合を最優先する事の妙味と旨味を貪る事に抜け目がなかった。
「・・・良いお店ね」
 まゆみは店内の壁に美しく並ぶ、淡い色使いの絵画を眺めながらそう言った。「そうだね」
 涼介はそう言ってその絵画に目を遣った。
 仕事に全く関係が無く、ある種普通で、ある意味普遍で純粋なスタンスを持つまゆみに料理を選ばせる事が、女性に評判だという店の雰囲気や味に割と的確な、しかもそれがより平均的な意見や印象になるだろうと涼介は踏んでいた。そして食事中、まゆみがどんな仕草や態度を見せても苛立たず、丁寧に穏やかに主導権をまゆみに与え続ける事に因って、より正確な意見が聞き出せるだろうと思っていた。
「美味しい」
 まゆみはワイングラスを唇から離し、涼介にほっとした様な笑顔を向け、料理にも今夜これからの〝涼介〟にも期待していた。
「このお店は良く使うの?」
 用意周到なのか当座凌ぎなのか全く推し量れない涼介の、緊張と安堵を繰り返し与えてくれる、何れにしても自信に満ち溢れた言動や立ち居振る舞いにまゆみは惹き込まれていた。そしてまゆみは、ともすれば遊び慣れている様に受け取られ兼ねない涼介のクールさに付き纏う危険な香りは、弱さや照れを隠す為に涼介が会得した技術なのかもしれないと感じていた。
「いや、初めてだよ」
 涼介は微笑んでいた。
「そうなんだ」
「気に入った?」
「うん・・・素敵」
「一度来てみようとは思ってたんだ・・・まゆみでよかったよ」
「えっ?」
「・・・そういう事さ」
 涼介は二人の声が思いのほか店内に響いている事を少し気にしながら、そう言って笑った。

 時間の経過と共に二人は声を弾ませ合っていた。
 涼介は多くを語り、その話題は趣味や学生時代まで遡っていた。
 まゆみは若い男女で賑わう店内の雰囲気に同化した様に笑い、涼介はそんなまゆみに更に軽口を叩きながら店内をさり気なく観察し続けていた。
「今日は涼介の色んな話聞いちゃったね」
「そう?」
「うん。嬉しかった」
「そう」
「涼介って高校の時サッカーやってたんだね・・・じゃ、サッカーの試合とかよく見るの?・・・私も覚えなきゃ」
「そうだね・・・ね、その話はまた今度にしようよ。そろそろ行こう」
 店内の客層に因って見えて来た、この店が人気だという幾つかの要因を頭の中で整理し終えていた涼介は、まゆみが切り出した新たな話題を切り捨てた。
「・・・うん」
 まゆみは想像以上に楽しい食事が出来た事に幸せを感じていた。

 店を出た二人は歩道を横切ろうとしていた。
 外は寒さを感じさせる風が吹いていた。
「次は美味しい所に連れてくよ」
 涼介はまゆみを見ず、料理に期待していた自分を嘲笑する様にそう言って車のハザードランプを点滅させた。
「美味し・・・かったよ・・・」
 まゆみは喋り終わる前に〝はっ〟としていた。
「そう、じゃぁ、取り敢えず良かったのかな」
「あ、でもそうね・・・もう少しお肉が・・・スパイシーでも良かったかも・・・」
「・・・了解」
 運転席側に回り込んでいた涼介は屋根越しのまゆみに笑顔を見せ、そう言った。
(またやっちゃった・・・)
 まゆみは縁石の手前で立ち止まっていた。
(涼介!・・・ほんとはそんなに美味しいなんて思ってなかったんだよ!)
 まゆみは車に乗り込んだ涼介に向かって心で叫んだ。
(もう・・・)
 味わっていた幸福感の為に突然投げられた涼介の言葉を半ば上の空で聞いてしまった事をまゆみは悔いていた。そして不用意に発した自分の一言に因って、涼介に味の分からない女だと思われているだろう事実に再び心が萎えそうになっていた。

 車は滑る様に街路樹が立ち並ぶ通りを走っていた。
 涼介は黙ったまま運転していた。
「次は涼介がよく行くお店に連れてってね」
 まゆみは意を決し、明るくそう言った。
「ん?・・・ああ、そうだね、了解・・・」
 まゆみでも市場調査でも料理の味でもなく、天王洲アイルで過ごした圭子とのひとときを懐かしむ為にメニューにあったバジリコのフェットチーネを敢えて追加注文した自分の哀しい性質を振り返っていた涼介は、耳に届いたまゆみの一言に虚を突かれて少し慌てていた。
「・・・・・」
 まゆみは〝了解〟と言った涼介の思いも寄らない笑顔に虚を突かれていた。

 涼介は食事をした店の直ぐ近くに在る大手町I.Cで都市高速道路に乗り、小倉市街から離れる下り車線でアクセルを踏み続けていた。
「ね、何処に行くの?」
 涼介の穏やかな横顔に、今夜涼介を深く知る事が出来る期待に胸を支配され始めていたまゆみは、車内に暫く続いた静けさを終わらせた。
「・・・コンビニに寄って、ラブホに行こうとしてる」
 涼介の心は不純な純粋に支配されていた。
「そうなの?・・・」
「却下して飲みに行く?」
「・・・そういう意味じゃないけど・・・」
「じゃあ・・・何?」
「・・・コンビニは分かる様な気がするけど・・・リョウの家に帰るんじゃないの?」
「そうだね・・・でも、それは次にして貰いたいんだ」
「・・・都合の悪い事でもあるの?」
「見せたくない物があるんだ」
「・・・見せたくない物って・・・誰にも?・・・それとも私にだけ?」
「まぁ、両方だね」
「・・・でも・・・そんな事言われると見たくなっちゃう」
「だろうね」
「・・・ねっ、何があるの?・・・見せて欲しいな」
 まゆみは明るくせがんだ。
「・・・・・」
 涼介は黙っていた。
「・・・ひょっとして・・・女性用の歯ブラシがあるとか?」
「・・・・・」
 涼介はまゆみの一言に含み笑いを見せた。
「・・・何故笑ったの?」
「実はね、あなたが手ぶらで来ても二、三泊は出来る女性の物が部屋中にあるんだ」
「もう、またそんな事言って誤魔化そうとしてる・・・ね、本当の理由は?」
 まゆみは笑顔でそう言いいながら故意に体を涼介に寄せた。
「本当だよ」
 涼介は前を見ていた。
「・・・本当の事言って欲しいな・・・」
「・・・・・」
 涼介は黙っていた。
「・・・涼介の部屋が見たい・・・」
 まゆみは体を涼介に寄せたまま、甘い口調で正直な思いを口にした。
「・・・今日はラブホの広い部屋でゆっくりしたい気分なんだ・・・そんな理由じゃ駄目だろうけど、そんな理由なんだ」
 甲高いエンジン音が響く車内で、涼介は低い声をまゆみの体に押し込む様に響かせた。
「・・・・・」
 まゆみは涼介を見つめながら考えていた。
 涼介はまゆみに横顔を向けたまま、自宅から遠ざかる方向にアクセルを踏み続けていた。
「・・・今度は絶対涼介の家だよ」
 まゆみは折れた。
「・・・了解」
 涼介は真っ直ぐ前を向いたままそう答えた。
 車はオレンジ色に光るナトリウム灯の帯の下で速度を保っていた。
 車内には再び静けさが訪れていた。
 まゆみは知らない街の夜景を眺めながら、会話の途切れた空間を埋める話題を探していた。
(男は愛せない女に嘘を言う、か・・・)
 涼介は自宅に散らばるエリカの物を思い浮かべながら、昼間に見た映画のワンシーンを思い出していた。

 涼介は横代I.Cで都市高速道路を降り、そのまま10号線バイパスを下っていた。
「何か欲しい物ある?」
 左車線沿いに小さくコンビニエンスストアの看板が光っていた。
「私も降りる」
 まゆみは小さな笑顔を涼介に向けていた。

 涼介はコンビニエンスストアを出て直ぐバイパスに別れを告げ、万が一でもエリカや知り合いと遭遇する事は無いだろう、自宅から遥か遠い場所に在るラブホテルに行き着く為に、旧10号線に続く県道に車を乗せていた。
 涼介は淡々とスマートに車を動かしながら、叶えられようとしている欲望を心の中で整理し始めていた。
 まゆみは涼介に喋り掛ける事が出来ず黙っていた。
 今夜まゆみは涼介のプライベートを覗き、生活習慣や癖を肌で感じ、涼介をもっと好きになりたいと思っていた。故にまゆみは車の中で、何故ラブホテルなのかもう一度聞くチャンスを伺っていた。しかし涼介はそんなまゆみの思いを透かしているかの様に相変わらずまゆみに視線を向けず、近寄り難がたい雰囲気を醸し、冷たいと形容しても不思議ではない態度で運転していた。
「煙草吸っていいかな?」
 涼介は言った。
「いいよ」
 走る車の周囲には〝夜景〟と呼べるものがなくなっていた。
 路面にはヘッドライトの輪郭がはっきりと浮かび上がっていた。
 まゆみは時折り独り言の様に喋り掛けて来る涼介との会話の間合いと、車が向かっている遠い先にポツンと一箇所だけ煌煌と光を放っている建物の存在に緊張を強いられていた。

「お疲れさん・・・俺ん家じゃなくてごめんな」
 涼介が明るくした室内はクールモダンスタイルの広い部屋だった。部屋の中央にはキングサイズのベッドが配置され、バスルームはガラスの壁で間仕切られていた。
「一緒にシャワー浴びる?」
 涼介はラブソファーの前にあるセンターテーブルにコンビニエンスストアのビニール袋を置き、上着を脱ぎながらまゆみに向かってそう言った。
「えっ!?」
「・・・ごめんごめん、何だか自宅に戻って来たみたいな気分になっちゃってさ・・・」
「うん・・・」
 まゆみは車の中で余儀なくされた緊張を増幅させ続けていた。
「自宅に帰ったら取り敢えず先にシャワー浴びたいタイプだから」
「・・・言ってたね、さっき」
「ごめん、グラスいいかな?」
 袋から白ワインを取り出して涼介はコルクを抜こうとしていた。
「うん・・・」
 立ち上がったまゆみは部屋から見えるバスルームに戸惑いの表情を浮かべ、何処かぎこちなくカップボードの方に歩き出した。
「・・・・・」
 涼介は白ワインと一緒に買った氷の袋を破りながら、車の中に携帯電話を態と置いて来た事が正解だったのかどうか振り返っていた。そして願わくは今夜エリカからの連絡が無いままであって欲しいと痛切に思っていた。
「・・・・・」
 センターテーブルの上にグラスを置いた後、流れの中で涼介の隣に座る事が出来なかったまゆみは何となく窓の方へ歩き出し、居所無さ気にカーテンを開け、見るつもりの無かった夜景を瞳に映していた。
「氷入れる?」
 涼介は手元に携帯電話が無い方が、今夜入るかもしれない受信や着信の全てに説得力のある言い訳が出来る筈だと自分の考えを括り、満を持してまゆみとの時間を動かし始めた。
「氷?・・・」
 ラブホテルに入ってからずっと涼介の優しさに触れたがっていたまゆみは、部屋の明かりに因って窓ガラスに映り込んでいた涼介から目を離し、涼介の方へ振り向いた。
 月が見えていた。
 まゆみが開けたカーテンの間から、涼介の元へ戻るまゆみを見守る様な月が見えていた。
「ごめんな」
 涼介はまゆみにグラスを渡した。
「・・・ううん、もういいよ」
「コンビニで買ったやつで」
「えっ?・・・もう・・・全然大丈夫」
 ラブホテルに来た事を謝っているのだと思っていたまゆみは、そう言って笑顔を見せた。
「俺ん家じゃなくて」
「え?・・・ありがと・・・」
 照れ屋な涼介の一面に一瞬触れた気がしたまゆみは、強いられていた緊張から少し解放され様としていた。
「じゃぁ、お疲れ」
「・・・乾杯」
 まゆみは満面に笑みを浮かべ、差し出されたグラスを鳴らしに行った。
 涼介は時間をゆっくり流そうとしていた。
 まゆみの瞳には柔らかさが戻っていた。
「ワインに氷入れたりするんだね」
「そうだね、たまにそうやって飲みたい時があるんだよ」
「・・・今度涼介の家でご飯作ってあげる」
「了解」
「・・・どんな料理が好きなの?」
「そうだなぁ・・・」
「私、結構料理得意なんだから」
「そう・・・じゃぁ・・・そうなると和食って流れだよな」
「いいよ、煮物でも何でも」
 まゆみは涼介が自分の彼氏である事を実感していた。そしてまゆみはこのままずっと涼介と喋り、涼介との距離をもっと縮めたいと思っていた。
「了解・・・じゃ、よろしく」
 涼介はまゆみが背を向けているガラス越しに優しく輝く月の様に穏やかだった。しかしその心の中は青く澄み、時に純粋だと表現される月に遠く及ばない不純な感情に支配されていた。






#創作大賞2024
#恋愛小説部門

ぬるい恋愛✉〝情熱という、理想というmelancholy〟

美位矢 直紀


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