ノスタルジアの感想とか、熱いうちに。

 こんにちは釘です。
 不定期な感想を垂れ流す記事です。あとはサブスクの雑記。
 見なものの感想を自由に書く、というのを恐れずにやるのは難しいので、理解をどこかへ置き忘れた言葉が立ち並ぶ。
 自身から出た言葉すら理解できない。行動は冷気で凍り付いた。「氷」がやって来た。あの虹色、あの滑らかな表面が僕を覆う。少女も長官も存在しない。
 というのが感想とパッケージングされて表出しているんですね。
 決して批評ではない。作品を受け取った自身の変化だけが正しいものだから、感想なんですね。
 批評は自己から離れた位置に浮いているから、そこに身はない。

ノスタルジア

 スタルジア:アンドレイ・タルコフスキー
 ソ連時代の映画ですね。簡単に概要を引用します。「芸術家は頭を下げないものだ」というエピソードが好きです。

「映像の詩人」と呼ばれ、叙情的とも言える自然描写、とりわけ「水」の象徴性を巧みに利用した独特の映像美で知られる。深い精神性を探求し、後期から晩年にかけて、人類の救済をテーマとした作品を制作・監督する。表現の自由を求めてソ連を亡命し、故郷に還ることなく、パリにて54歳で客死する。
Wikipedia アンドレイ・タルコフスキー

 味を引いたのは漫画家の阿部共実さんがTwitterで監督について触れていたからです。このような形で様々な作品を知れるのがSNSの良いところだと思う。どんなものだろう、とアマプラで惑星ソラリスのソダーバーグ版を見て「あ、これリメイクだ!」と思いながら、簡単に見れたのがこの作品だった。他の作品は配信されていないので、BDを入手したらまたこのように感想を書くかもしれない。関連書籍は値が張るので気になるものの手に入れるかは分からない。
 僕個人は彼の作品を気に入りました。雰囲気で楽しむものは妄想に埋没できるのがよいです。詩とかね。

 娯楽としては冗長なので、合わない人は本当に合わない。分かりやすく楽しめるものでないから、予告を感覚的に見て良さそうと思えば、見る価値はかなり有る。シェパード可愛い。把持される犬。どうやら「難解」なものと言われるようだ。というのが見えてくる。
 冗長なシーンは意識の視点を表す。
 だから、娯楽溢れるいまには合わない。
 この物語も、世界の終末を思う人と個に根差した安寧の譫妄じみた灰色が「水」を通して絡み合い「色」がある映画なのに、それらが徐々に色を失って見えてくる瞬間が見ていてよかったと思えた。

 つまるところ、この作品は映像としての詩作であり、そこに深読みはない。水の流れのように、そこに生まれる記憶こそが大事だと教えてくれる。僕の記憶はここで記録になるが、それは断末魔に等しい。飢餓だ。書く傍から僕は世界から断絶していく。
(記憶と記録は惑星ソラリスで取り上げられる話になる。)

 像の中で折り重なるように表現される「音」の描写が偶発性を持って世界を彩る。郷愁と終わり、世界が終わったのだから最後の原風景に戻ってくる。
 色は灰色に混ざり合い、孤独も夢も、少ない音楽に吸い込まれた。
 ノスタルジア。
 様々な水の音を楽しむのがいい。

 水と土と火。印象的に残されているものが、現実と夢を侵食していく。意識的な視点が人を儀式へと駆り立てる。
 次の人は精神世界に興味があるの。精神世界は僕たちの記憶である。現実から乖離していく孤独と夢の象徴、ノスタルジア。流れる水の音でもう何年も太陽を見ていないのだ。原初からはじまりの点へ戻るの。

 霧煙る入口からノスタルジアへ、クラウチングスタートとコケて笑うふわふわヘアーの女。
 『1+1=1』
 重要なのは完成ではなく、願いを維持することなのだ。

 流れ込む映像が完成されたものであることを、誰とはなしに思う。目と耳を使って表現を受け取る。それらはどこを切り取っても、不完全なものであるし、全てを見て経過した時と残る記憶だけがこの作品を作品たらしめる。

 かしながら、言語的距離を僕は超えることが出来ない。全編イタリア語で語られ、訳者の言語的世界観でこの映画が切り取られ、知ることが出来ないのは何よりも悲しい。
 文学を読んでいてもそう思う。僕が知っているラスコーリニコフもイワン・カラマーゾフも、フラニーとゾーイーも、非情なほどに遠く隔たっている。神曲なんかを読んでも、宗教や言語的な視点がずれて距離を生む。
 僕はわずかながらエドワード・ゴーリーの絵本を理解できるだけなんだ。 しかし、そもそもその隔たりこそが必要なので、気にしすぎる必要もない。断絶こそが人を繋ぐ。ほぼ日本語だけでしか世界を認知出来ない寂しさは確かにある。

 僕の理解や認知が浮いているのも、上澄みなのも、それはいつものことだ。僕は油。焼かれて燃え尽きる為だけにある。油は燃えて消えた。潜ることなく消える火、太陽は火の中で隠されてしまう。太陽は火ではない。火の中の断末魔にある常に崖っぷちなのが現実だ。妄執の恍惚があったとしても、焼け死ぬ最中の苦悶の叫びは変わらない。レクイエムが流れたとしても、それは暴力的に止められてしまう。

放送大学 @ 人間にとって貧困とは何か(第十三回)

 を聞いていた。最近、何か作業をする時にこうしたものをラジオで流している。音楽では少し耳にトゲがある、聞き流せるものは何だろう。と少し考えて、radikoで放送大学を流すに至った。
 興味深い話だったので個人的メモとして思ったことを残しておきます。

 今の東北地方が1950年の人口と同じで、これからもっと少なくなる。労働力は地方から都市へ、民間の派遣業によって流入していくなんてことを話していた。また、特に気になったのは後半の話だ。
 日雇い労働者たちの関係性は寄せ場で生じている。
 私情を多く話さない関係。よく知らないから「みんないろいろ脛傷抱えているのだから」と一般化される。そうして紡がれる緩やかな繋がり。駄目人間だけどよお、なんとかやってんだぜ。そんな我々感情があるから、深くはないが拒絶も小さな関係。また、自分と同じ感情を共有しているから労働に対して暴動が起きる。しかし、彼らのような旅人は、放浪者たる労働者に取って代わられつつある。派遣され、派遣された人間はどこにいるかなんて気にしない。それらは数字として挙がって来るだけ。我々感情はなく、無数の場所を巡る。ただただ労働力として。

 場所から解放された自由な人間、というものは合理主義者の幻想。
 なぜなら通信技術の発達により権力は空間、時間の制約に縛られなくなったから。そうして監視、管理の容易さが生まれた。距離に意味がなくなったのは命令を下す人たちの考え方だ。
 合理主義者の幻想が労働力の流動性を押し付ける。ただそこに労働者がいればいい。その労働者を人として見ることはなく、寮なども必要なくなる。寄せ場なんてものは消え、労働者が数字に変わる。しかしながら結局人間はこの肉体から逃げられないので、関係性が生じる。それなしに考える合理主義者たちは容易に分断を生じさせる。

 僕はよく思う。人は人としてあるのだから、それらを明確に、きっちりをしてしまうことが余計自分たちの首を絞めているのではないかと。

サブスクのはなし? 動画サイトではなくて?

 楽なようで、結構無駄なコストに感じることも多いサブスクリプション。使ってみようかな、と思っても月額数千円、毎月使用料を取られる感覚が馴染まない。買って終わり、よりも利益を得やすそうだけれどどうしても使わない月もあると損だなあと思ってしまう。
 ただ、主に動画サイトについての雑記です。

 Dplayが早々にサービス終了になったのを見て思うのは、上手い収益が上げられなかったなのかなあということ。youtubeで金採取やサバイバルのドキュメンタリー風の動画を色々上げていて、登録者数とか閲覧数、閲覧時間を考えて収益になるからと進めたのか、そもそも自前の配信サイト作成あってなのか、商売としてどうなんだろうとか、そんなことだ。新たなプラットフォームへ、とはいっても次はあるのだろうかしらん。

 最初は無料+広告で多くのコンテンツが見れた。有料版が出来て、youtubeに広告が載るようになってから、Dplayの中では無料で見れるのは1話だけとかに変わったものが増えていった気がする。
 最初は無料で興味を引いて、よくアクセスするものにして、続きが気になるから少しのサブスクなら払ってくれる。商品を買ってくれる、ということなんだろうか。
 しかし、無料で(広告を我慢して)見ているのだから、という気持ちも生まれる。実際、お金を払うべきものに対してであっても、無料で間口を広げればそんな感覚になってしまう。そこからサブスクに繋げるというのはビジネスとして良いのかもしれないけれど、なんでも無料で済ませられると考える意識が根付してしまうようにも思う。例えばyoutubeで3分に1回、広告が2本とか流れるのを見ると嫌だなーとか思う。そこにコンプレックス商売の声が木霊する。まだニコニコ動画は最初と最後だけだから良いけども、興味のあるコンテンツはほとんどない。広告が本体のビビッド・アーミーだけが残る。パネルマジックみたいなものです。広告だけにコストをかけてどこまで収益を得られるか、という実験みたいで面白いなあと思う。本当に目的がそれだけなのか、といった想像を膨らませている。

 ニコニコ動画といえば、1年ほど前に退職エントリを読んだ覚えがある。上の立場の人にやりたいことを承認されずに辞めました。という記事だった。私は頑張ったのに! 悲しいけれどもうおわりです、と書いてあった気がする。辞める人の話は話半分に、その背景が分からないから。
 肝心のニコニコ動画はRTAをたまに見る程度でしかない。
 だから僕はもういにしえのゲームを懐かしむインターネット老人会の1人だろう。子供のころにやったRed Stoneがまだやっているのに驚き、アクトレイザーはクリアできなかった。ジャングルみたいな所で投げる。スターフォックスも3ステージ目で投げた。そうやって私たちは自我を過去に捨てていく。
 2007年頃の最盛期は楽しかったように思うが、時が経ったからかもしれない。楽しかったあの頃、というものが、それ以上に楽しくなることは未だにない。怠惰な人生に埋没する。

 動画を見るとは言っているが、最近はよく分からない人の話などをラジオ感覚で流す使い方をしているので、ほとんど音を聞いているようなもの。だから、頻繁に広告が入ると面倒くさい。家事とかしていて、広告が入ったりするとスキップボタンを押せないからクソ長広告に当たれば延々とサプリや脱毛の話を聞かされる。
 かといって、Youtubeを有料で見るかと言われればそうでもない。安く時間を潰せるコンテンツではあるから、唯一アマプラは入っているが、残念ながら見たい映画は大抵無料ではない。沢山登録すれば、損した気持ちだけが募る。

 時間つぶしであれば、放送大学のラジオとかを流すのも楽しいので、そっちでもいいかななんて思う。と、ラジオの良さを今頃になって発見したのが、この話の結論です。

 また、何かを見たら記事を書こうと思います。

 それでは。

釘を打ち込み打ち込まれる。 そんなところです。