音楽は支えとなるか?

こんばんは。釘です。

ラヴェルが何もかも分からなくなっても、自身の曲を聴いてこんなに美しい曲を自分が作ったと思える。音楽は耳を悪くするし、ドラッグとお友達だし、MDMAは非合法なセラピーに使われる。
音楽を聴けば、現実から少し目を背けることが出来る。amazarashiを聴いて世界はくそったれのままだと思うのも、ドビュッシーのベルガマスク組曲を聞きながら雨音が落ちるのを聴くのも悪くない。ささやかな楽しみ。

けれども、音楽は支えにならなかった。

支え。支柱、突っ張り棒。大黒柱。
その時しかない音楽にその支えを任せるのは難しい。4分33秒なら現実と生きる空間が表現される?
それもまた違っている。
言いたいのは「音楽って流動的な固形物なんだよ」ってこと。
そこに固着したものが流動的に一つの場を作り出す。時間に流れていくものの、音のセオリーは決まっていて、それはコードであって、詩であって、感情なんだ。
体調が悪い時に飲む、カロリーメイト

一時の感情に支配されるな。視野を広く持て。

湖に写った自分を見て。それだけで、とてもつらい餓死に至るなんて。
音楽と自己愛。
僕は音に乗らない。ちゃちな一本指をステージに投げかけない。
人との一体感から離れている。
逃げようと思っているんだ。相対性理論のライブでもみくちゃにされたのが少し辛かっただけなのかもしれない。
声優のライブでみんなが叫んでいるのを間近に聞いて、音楽と人の距離の掴み方もやっぱり離れている。独特な世界観をお持ち? いいや、自己愛。
自己愛は最終的に餓死に至るので、これもまた同様に支えにはならない。

音楽とはなにものなんだ?

時間を沢山かけて、一瞬で消費される儚いもの。
つまるところ人なんだ。そうだ、思い出した。
音楽を聴いてもつまらない時、本を開いてもつまらない時、ただただ歩行の衝撃だけが脳を癒すとき、外の音を楽しんでいる。
環境音楽やLo-fi HipHopのようなものを好む時に、音楽は人を阻害しない場になる。それはメインでもなくて、生活に寄り添っている。そんな在り方がいいと理論武装とかなんとか。

赤い頭で理路整然としない。

音楽と共に語られるお酒も、ここにはないから。
お酒の友達は酸っぱくイガイガとしたものだけしかない。どうやらそれらは楽しむものらしい。僕は嘔吐の時の気持ちを楽しむ。先生か誰か怖い人に叱られて俯いている時の感じ。
「何も出来ねえなら帰れや」
ああ、すいません。僕はにやけてしまうのだ。なぜかここで愛想を良くしてしまう悪癖。痛いです。そんなわけないけど。

だから、けっきょく、つまるところ

音楽は支えというわけではなくて、トラス構造。
剛性を保つために、ギザギザと続いてみる。
そこに乗ってみればつかの間のたのしみ。
セッションしたり、ライブしたり。限られた時間だけだから楽しい。
どうやら、支え。というのは、どうにも掴みどころのない、軽いもののように思います。
適当な軽さ。熱量。必死に藻掻く。実はこの感じが良くわかりません。

本について、またどこかで書こうと思います。

釘を打ち込み打ち込まれる。 そんなところです。