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満たされないのは、社会が作った虚像の「理想」に縛られているから

狭い狭いお城の中で、
いつも一番を目指してきた。

中学校では生徒会や海外派遣やスピーチコンテスト、中学校の誰よりも目立って、たくさんの経験をした人でありたかったし、
テストだって、一番になることだけがやりがいだった。

高校に入って文化部で一番厳しい部活を選んだのは、
一番厳しい部活で頑張ったっていう事実が欲しかったし、
入る大学は、国で一番の東大へはさすがにいけなかったけれど
そこそこにいい大学に入ることだけがやりがいだった。

でもそれってものすごく小さな輪の中での出来事だった。
今なら、小学生から数学コンテストで優勝しちゃう人とか、
ユーチューブで何十万て稼いじゃう子供とか、
すでに帰国子女で英語ペラペラな人とか、すごい人なんてごまんといたわけだ。
わたしの一番は、自分のいるコミュニティでの一番だったんだ。

だから同じ思考で、
社会においての一番、というか「正解」を自分が手に入れなければ!ともがいている。それはとても苦しくて辛い。
わたしは極端なので、この社会でのい典型的な一番といえば、
大金持ちになって、
有名になって、なんかかっこいい外国人と結婚とかしちゃって
バリバリ英語で仕事して。みたいな像を思い描いてしまう。

冷静に考えて、そんな風になれるわけ絶対ないし、
なりたいわけでもない。
けれど、
そうならないといけない、
そうでない人生は歩んではいけない、
妥協なんてしてはいけない、
レールから外れてはいけない、
って変な義務感に縛られて、最近もう頭がおかしくなってきている。

正解以外の人生を送ることが
妥協だって考えている時点で間違っているんだよね。
人生に正解なんてないって言葉もあるじゃない。

そんなことを考えているから、
わたしはこんなにも満たされることを知らないのだと思った。
正解こそが満足だとしたら、
わたしは、大金持ちになって有名人になって、ちやほやされるまで満たされることはない、ということになる。
きっと、生きづらさとか、自己嫌悪とかの原因はここだな。

わたしが求めていたものは、果てしないほど遠い、誰かの価値観によって作られた虚像の理想。いわゆる「成功した人生」だったのだ。

いつも満たされないのは、
自分自身に満足することを知らないからだなって。
「成功した人生」以外のわたしを否定するならば、
わたしは一生満たされることはない。
そんな極端な考え方、やっぱりおかしい。変だ。

わたしの思考にはやっぱり問題があるのかもしれない。
「わたしはもっと上を目指さないといけないんです、妥協なんてしてはいけないんです、そうじゃないとわたしは人生から脱落してしまうんです」
とカウンセラーに泣く泣く話したら、
「あなたの考えは飛躍しすぎですね笑」
と笑われてしまったし。笑
わたしは人一倍思考が偏っているのかもしれないな。

そう気づいたからには、思考を変えないとなと最近すごく思ってる。

このまま生きていくことを選んだら、
苦しくてしょうがない。修行みたいな人生だ。

何か成し遂げたいことがあって、
それに向かって修行してるならそれはまた別の話だけど、

世間的に見た「正解」のような人生を手に入れようとする修行はあまりにも
辛い。というか、そんなのわたしの人生じゃない。

だからいい加減自分の人生と向き合うことをしようと思う。
正解があるなんて考えは捨てなければ。
思考を変えなければ。