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「広告の未来」が「脳」の争奪戦なのではなく、「広告の未来」を語る「脳」がありがちな言説に争奪されてるのではないか?と感じた話。

 博報堂の人が、この哲学者さんの言う「広告の未来」をふんふんと聞いて同意するくらい、代理店の人間は自ら「広告の未来」を夢想できなくなったのか、と残念に思った。

 「広告」とはテクノロジーや情報と言った概念だけではなく、経済や経営、また社会や文化というのものの変容も取り込んで考えるべきテーマ。

 

 この対談はいわゆる『現代思想』っぽい言説で読み物としては面白いが、この言説そのものもが、「広告」というものに対するよくあるディストピア的世界観に取り込まれているように思う。

 

 『ブレードランナー』で描かれた大画面や空飛ぶサイネージは景観対策で各都市で縮小方向へ、そして『マイノリティレポート』で描かれたようなパーソナライズされたサイネージはGDPR登場でますますハードルは高くなってきている。

 

(↑は上海万博開催前後までband付近で見られた、『ブレードランナー』を彷彿とされる広告船。聞いた話によれば運営は日本人だったとか?)

 ようは「技術的に可能」という観点に、“広告主や代理店は消費者へ情報を無理やり送り込めるという”という暗黙の前提を加えたような「広告の未来」は実はもう難しい。

 

 脳への直接のジャックインは、すなわち究極のタッチポイントではあるが、例え技術が可能にしたとしても、そこへの広告の介入はすでに非常に考えにくいと思う。

 かつて、ティモシー・リアリーが『神経政治学』で唱えたような、自我や現実社会はシナプスによるフィクションである、という論に従うのであれば、そのフィクションに介入することで、「広告」というフィクションを割り込ませることができるだろう。しかしながら、今や「広告」というのは世の中からもっとも危険視されている存在となりつつあり、行き過ぎた広告技術による企みは法規制、条例、業界内でのガイドライン、消費者からのボイコット、などなどで阻まれ出している。

 それゆえに「広告の未来」を語るのであれば、それは「技術的に可能だから消費者の頭の中にメッセージを送り込もう」というものではなく、社会性や人間性の立場やモラルを前提にしたものでなければそれこそ未来はないだろう。

 上記のようなツイートが現在ビジネスの公式アカウントから投稿されていたが、一節には人間が受け取る広告メッセージの数は4000-5000/日だと言われている。すでにこのツイートで言われている状況は起きているのであり「未来」ではない。

 でもこのようなツイートを発する現代ビジネスのTwitter担当の方でも、それだけの広告に接触していることが意識できないくらい、とっくの昔に広告は無視されてる存在なのだ。「広告の未来」を語るためのもう一つの起点は、「広告が見られている」という暗黙の前提を排除しておくことだろうとも思う。

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