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一見何も語っていないように見える広告は、いったいなんのために 〜 80年代のサントリーローヤルのCMが“本当”に素晴らしいと思える理由、その考察

この文章は以下のCMをご覧いただくところから始まります。

上記CMは、”広告業界”では非常によく知られているもの。

広告クリエイターがこのサントリーローヤルの「ランボオ」のCMの話をしだすと、必ずといっていいほど「あの、(商品のベネフィットなど)なにも語ってないのが素晴らしい」っていう絶賛の仕方をする。

でもこのCMは、オンエアされた頃の当該商品の置かれていた環境や飲まれ方があり、すでにたくさんの愛好者がいたという文脈があってこその話なのであって、その話を抜きに「作品として素晴らしい」みたいな話になってしまうのは、なんだかなーといつも広告クリエイターたちの話を聞いてて思うのだ。

この「サントリーローヤル」というウィスキーは、日本の国産ウィスキーの父・鳥井信治郎が生み出したもので、同社の60周年記念にプレミアムウィスキーとして1960年に販売がスタートしたもの。

当時はウィスキーやブランデーなどの高い酒税がかけられていたこともあり、そもそも”洋酒”は贈答品としての位置づけで、(ある年齢以上の人は記憶にあるかもしれないけど)それはそれは大事に大事に棚にしまわれていて、特別なときに飲まれるような「オジサマたちの嗜好品」だった。中でも「ローヤル」は今どきのイメージいうと「響」や「白州」といったプレミアムウィスキーのさらに上ぐらいの商品だったのである。

酒税法が改正されてウィスキーが一般にも安価に買えるようになるのは、1998年以降。つまり、上の「ランボオ」のCMがオンエアされていた頃は、その商品は超高級品だった。

さて、そもそもそのような超高級品について、「商品のベネフィット」を広告上で語る必要はあるのか?

実はこのCMと一連の当時の「ローヤル」のCMは、”リテンションのためのブランディング”なのであって、「何も商品のことを語っていない」のではなく、「何も商品のことを語る必要がない」ということなのじゃないかと思うのだ。

「ランボオ」のCMというのは、「ローヤル」のプレステージの維持、及びそれを飲用するシーンや愛用者がそれを飲んでる自分自身を肯定するためのものだった、というふうに考えたほうが妥当なように思う。そのためにいわばファッションブランドのような広告、つまり彼らがいちいち自分たちの売る衣類のベネフィットを語らないように「世界感や文化」を伝える広告である必要があったのではないかと。その点がこのCMの素晴らしさにあると思う。いや単なる広告クリエイティブの話ではなく、当時の文脈に合わせたブランディングの素晴らしさといったほうがいいか。

繰り返しになるけれども、そうした文脈(=当時のウィスキーの背景・ローヤルの位置づけなど)があってこその話なのであって、それらを切り離して「作品として素晴らしい」みたいな話になってしまうのは、実は広告クリエイターたちの自己欺瞞じゃあないかと思うのだよ。

Context is King, Content is Queen.

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