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感性を疑え 感性って絶対なのか

 いわゆるクラシック音楽と呼ばれるものは、だいたいにおいて楽譜にきちんと記されている。その楽譜をさまざまなスタイル、考え、演奏家自身の感性を通じて読み、音にして再現する。そうやって表現される音楽は、クラシック音楽にかぎらないけれど、クラシック音楽では、このようなプロセスによって音にするのが一般的だ。大前提といってよい。
 クラシック音楽の世界では、演奏家を再現芸術家と言ったりする。これはすごく奇妙な言い方だ。クラシック音楽の特殊性をあらわしていると思う。ジャズやポピュラーの方面では、まず使わないだろう。
 楽譜に書かれた音符を音にする、その行為を「再現する」と呼ぶことから「再現芸術家」という言い方が出てきたのだろうけれど、もちろん単純な話ではない。楽想とは時代とともに何層ものレイヤーに覆われたテクストであり、これを読み込むやり方というのは時代、スタイル、伝統にたいする考え方、受け止め方によって非常に異なってくるからだ。モーツァルトのピアノソナタを何も考えずに楽譜に書かれたとおりに弾く、という場合でも、そこにはどうしたってその人の受けた時代、教育が反映されるし、感性もまたその演奏者が生まれ育った時代、教育などによって磨かれたものだ。先天的な感性などというものは、伝統の産物であり、特定の物語の中の、仲間内でしか通用しない用語に過ぎない。ある演奏を聴いて、「無心に音を紡いでいる」というふうに感じ、リスナーどうしで共感しあう。そういう場合、わたしたちは同じ物語の中にいて、音楽に耳を傾けている。
 演奏家を再現芸術家と呼ぶのならば、彼らは何を再現しているのか。究極的には楽譜に込められた精神、魂なのかもしれない。晩年のトスカニーニは謙虚だった。楽譜を読み、そこに込められた精神、魂を忠実に音にすることに努めた。それでもトスカニーニのアクは拭われていないのだが。いや、楽譜に忠実であろうと努力すればするほど、個性のアクはいよいよ鮮明になるところがトスカニーニの大指揮者たるゆえんなのかもしれない。
 時代、スタイルが変わろうとも、楽譜に込められた音楽の精神、魂は不変であり、だからこそ時代を超えて愛される音楽作品があるのだろう。確かにスタイルや楽譜の読み方が変わっても、魅力のいささかも減じない名作というのは、クラシック音楽の世界では枚挙に暇がない。また時代の隔たりを感じさせる古いスタイルによる演奏であっても、そこに不変の精神、魂を聴き取ることだってある。
 とにかく音楽を聴いて、わたしたちは感動する。興奮し、落涙する。あるいはもっと静かに、つくづくと考え込むこともある。読書して、はたと膝を打つように、音楽を聴いて、それが心に沁み込んで、「ああ、そうか」と呟き、何か蒙の啓ける思いをすることだってある。
 音楽の、何がそういう現象を起こすのだろうか。楽譜に込められた精神、魂だろうか。とすると、楽譜に基づいて再現されたから感動したということになる。聴き手を感動させたのは、作品に内在する魂とかではなくて、もしかすると演奏家自身の生き生きとした精神の発露かもしれないのに。
 一般にクラシック音楽の聴き手は、感動の源を作品そのものの中にばかり認めたがる。ここでいうクラシック音楽は歴史的な区分ではない。楽譜にきちんと記され、その楽譜が独占されておらず、楽譜が、ひいては作曲家が絶対的な権威をもつ音楽のことだ。
 たとえばミサ ロ短調BWV232を全身全霊で聴き、震撼するほどの衝撃的な感動体験をしたとする。その体験をもたらした一番の恩人は誰かと問われたら、迷うことなく「バッハ」と答えるだろう。ジャズやポップスの世界ではあり得ない話だ。感動を与えてくれた恩人は演奏家、歌手であって、その曲(あるいは原曲)の作曲者は、たった今見て感動した映画の脚本家ほどにも気に留められていないかもしれない。無論、クラシック音楽だって、最初からそうだったわけではない。17世紀のイタリアオペラでは作曲家よりも歌手に注目が集まった。感動は作曲家よりも演奏家によって与えられるものだった。
 個人主義、すばらしいものは天才の個性から生まれるものというのは、個人の主体を社会構成の前提にした近代以降に成立した考えだ。ここから作曲家を一義とするイデオロギーは生まれた。AIが凄まじい勢いで社会に進出し、人から職を奪ってやまない時代において、なおこの盤石なイデオロギーは、いささかも揺るがない。作品崇拝、作曲家礼賛、わが師尊し正典万歳のイデオロギーである。
 ミューズ、音楽の神が聴き手の生化学的反応に及ぼす影響は多様であり、複雑を極めている。それを思うと、再現芸術という言葉がいよいよ奇妙に聞こえてくる。これは矛盾を孕んだ表現ではないか。音楽はもともと再現なんかできないのだから。確かに記録することはできる。しかしそれは記録でしかなく、そのときの一回性はけっして再現できない。再現芸術、これもクラシック音楽のイデオロギーから生じた表現なのかもしれない。たとえばわたしたちは絶対にジャズのプレイヤーを再現芸術家とは呼ばない。
 一期一会の演奏会で圧倒的な感動体験をしたとする。もしもその後、そのときのライブ演奏がCD化された、あるいはテレビ放映されたとして、同じ質の感動をもたらすだろうか。なるほど当時を思い出して、感動を反芻することはできるかもしれない。または生で聴いたときには気づかなかった発見、感動があるかもしれない。いずれにせよ音楽の精霊は、場所と演奏家と聴き手がひとつになったところで、不意にあらわれる。音楽の精霊を呼び出す場に居合わせたこと、それは精霊の呼び出しに図らずも聴き手として加担したことでもあるのだが、その体験がもたらす種類の感動は、音楽の一回性によってしか、もたらされない。
 音楽の体験に力を抜き、心を開く聴き手は、音楽の一回性を聞き逃すまいと構える狩人のようだ。狩人には複数の能力が求められる。鍛えられた技と状況の判断力は、その一部にすぎない。持って生まれた能力、それを経験と努力によって磨き、高める。弓を射る技だけが天下一品というだけでは、じつは優れた狩人としては十分でなかったりする。射手としての技はからっきしでも、草原の先のバッタを数えられるほどの視力を誇る者、あるいは頬や耳たぶを撫でるそよ風からハシグロヒタキの飛来を感じる者は、もしかすると優れた狩人と見なされるかもしれない。総合的な能力、生き方、来し方、そのまるごと全部をもって、狩人は構える。そして自然の音に耳を傾ける。音楽を聴くというのは、つまりそういうことではないか。
 もう比喩はやめよう。きっぱり感性と言おうか。感性とは総合的な能力であり、聴き手は感性を介して音楽と出会う。

 感性はなにかそれ自体、独立した生き物であって、日々刻々と変化し、成長を続ける。人格も然りだ。それはひとつの形あるものではない。それなのに、わたしたちは人格を固定したものと思いたがる。自分の人格という幻想にひたって、それが大切に扱われたと思ったら喜び、傷つけられたと感じたら憤激し、ふさぎ込む。
 感性は肉体の成長が止まっても、なお激しく成長を続ける。感性は疲れ知らずだ。二十四時間、活発に活動している。睡眠中は夢の中で荒野を駆け巡り、過去と未来を自在に行き来する。
 そんな感性をどうして固定したもの、形あるものだと考えてしまうのだろう。そうイメージすることで捉えやすい感じがするのかもしれない。感性のアンテナ、という表現から屋根にあるアンテナを思い浮かべるように。しかし、そのときにはもう、感性は感性としての役目を終えている。
 音楽に没入していると、自分は人ではない、人ですらない、もっと根源的な存在である、と感じる、そういう一瞬が訪れてくる。感性はただ音の流れとともに変化し、流転する。流れているのは聞こえてくる音だけではない。それを受け止める感性もまた、音と同じように流れて、けっしてとどまらないものなのだけど、しかし音とちがって感性は停滞してしまうことがある。眠りが浅いと現実のさまざまな音で目を覚ますように、音楽への没入が中途半端な場合、わたしたちの中にさまざまな意識が入り込んで、感性の流れをせき止めてしまう。
 どういう心理になって、わたしたちは感性の運動にストップをかけてしまうのだろうか。
 そして感性の運動の完全停止に気づかず、音楽鑑賞の気分で音楽に付き合うこともある。そういうとき、人は音楽に耳を傾けているつもりかもしれないが、感性は音楽を聴いていない。そしてそのことに気づいていない。過去の聴体験をほじくり返して、愛撫しているだけなのに。
 それは夜道を無灯火のまま運転するドライバーに似ている。ドライバーは車のヘッドライトが点灯していないことに気づいていない。感性の運動が停止したまま音楽を聴くのは、これと同じくらい危険な行為かもしれない。車とちがって被害を受けるのはもっぱら当人だけだが。
 変化し、流転する感性、そのときの感性を自覚すること。

 ある曲の最初に聞いた演奏が聴き手の中でその曲の基準となる。その聴体験の感動が深ければ深いほど、基準は確固たるものになる。音楽を聴くよすがになる。しかし聴き手の中に根を下ろした基準は、ときに感性の流れを阻害する土砂にもなる。新しい音楽、演奏との出会いがあるかもしれないのに、しゃしゃり出てきてこれを台無しにする。かように最初の、印象的な聴体験というのは、いとも簡単に嫉妬深い恋人になる。最初の体験というだけで、必ずしも恋人になるとは限らないのに。
 その土砂を崩して平らにし、感性をいつでも水の流れるがごとき状態に保っておく。絶対の基準など、聴き手の中で設けてはならない。好悪、好き嫌いの判断なぞは、とっとと捨てる。意識していろいろな演奏を聴き、曲を聴き、さかしらな判断を下さないこと。土砂を崩して平らにするとは、さまざまな音楽、音の生成する現場に立ち会って初めて可能になる。
 まずは音楽を受け止めよう。ありのままに。
 とても難しく感じられるかもしれない。たしかに難しい。ある程度、心の訓練が必要である。なんといってもわたしたちは固定した自分の感性を信じたくてたまらないのだから。

 一聴してピンと来ない。好きになれない、どうも自分の感性に合わない音楽、演奏だと思う。そういう経験は珍しくない。で、怠慢な聴き手は驚くほど傲慢になる。その非を音楽に帰して顧みないのだ。
 もしかすると自分の感性が未熟だから、その良さを味わいきれなかったのではないか、と疑うこと。そして感性を磨くべく、歴史的な背景、その音楽にまつわる情報を収集し、体系化した知識として血肉化すること。これが音楽を謙虚に聴き、感性を鍛える基本的な態度ではないか。
 モーツァルトの音楽が好きになれない。あるいはマーラーはどこがよいのかわからない。この類の告白は、実はその告白者自身の感性の欠落、素養の欠如を明らかにしているだけだったりする。だからその手の告白は慎むのが大人の嗜みというものだ。嫌いだと言ったところで、その音楽の欠点をあげつらうことなど、とてもできないし、そもそも無意味だ。音楽という人間の営為、連綿と歴史を通じて営み、聴き継がれてきた現象の圧倒的な事実の前では、人ひとりの感性、好き嫌いなぞ物の数ではない。好き嫌いなぞ語るのはやめよ。
 好き嫌いにこだわるなら、いっそAIに作らせた音楽で自らを慰めればよいだろう。個人の嗜好に合った音楽という、それだけを条件にするなら、人間よりもAIのほうがもはや達者である。
 ほう、あなたはブルックナーが苦手ですか。それは聴き込む努力が足りないからですよ、ととりあえず言っておこう。四回や五回聴いただけでわかる範囲の良さに囲まれて生きるのは、音楽を精神的に愛する者の選ぶ人生ではない。
 音楽という見えない、実在しないものに触れると、人間は根源的な恐怖を覚える。いったいこれは何だ。しかも心に忍び込んでくる。わたしを誘惑しているのか。不安になるのも当然である。だからせめてわたしたちは自分の第一印象、固定した感性で音楽をジャッジしようとする。で、結局、固定したあなたの感性はあなたに何をもたらしただろうか。
 人ひとりのこれまでの聴体験なぞは、たとえどんなにたくさんの音楽に接してきたとしても、知れたものである。結局、個人的なノスタルジーにすぎなかったりする。まあ、たまにはノスタルジーも悪くないけど、音楽をアクチュアルに聴く、受け止める姿勢は、そこからは生まれてこない。

 四六時中活動する感性。これを磨くにはどうすればいいのか。
 磨いたところで、次の瞬間には錆びていたりするのが感性である。意志の強い人であっても、いつでも悪い誘惑を退けられるわけではない。心の状態によっては誘惑に屈してしまうことだってあるだろう。感性の動きは、人間の心の揺れ方と似ている。
 音楽を聴きながら、自分の感性を疑う。そうでもしないと厭世的になってしまうほど、世の中は嫌いな音楽に満ち満ちている。でも、それは音楽ではなく、聴き手の感性に問題があることの証左にすぎない。世の中に悪い音楽はない。人間の感性に限界があるだけだ。
 ならばその感性を疑う営為によってしか、音楽を真に愛する道は開かれない。感性を疑うにあたっては、音楽の背景にかかわる歴史的な知識、様式や理論についての素養も必要になってくる。だが、あまり神経質にならなくてよい。感性を疑うよすがになれば、それで事足りる。
 感性は絶対ではない。感性を疑いながら音楽に耳を傾けよう。それを続けることで、いつしか世界の見方が変わる。ある日、世界がこれまでとは異なって見えていることに気づく。それは最高の音楽、最高の演奏に出会えたときと同じ質の感動を与えてくれるのだ。保証する。じつにまったくそれと同じ現象ではないか。
 
 
 

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