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私のリハビリ履歴書

*しばらく私の過去にお付き合いください

日本におけるリハビリは1960年頃から始まったようですが、私の誕生は1961年。なんとリハビリと同時期の日本を歩んできて、また歩んでいるようです。私は北九州戸畑区の生まれで、幼いころは絵にかいたような劣等生でした。小2のころ家庭の事情で大分県国東半島の真玉町に引っ越し、その頃の興味は専ら昆虫へ向かっていました。小6の終わりだったでしょうか、世界地図に興味が湧いて、そこから成績が伸び始め、中3のころには学業優秀となっていました(性格はひねくれていますが(;^ω^)。

1978年(昭和53年 17歳 高3)、数学塾の先生から「リハビリの学校を受けてみないか?」との勧めがありましたが、リハビリが何たるか全くもって知りませんでした。ちなみに、この数学塾の先生の息子は、宇佐市S病院の整形外科医でした。

〈受験〉

私は戸畑の生まれだったので、母の刷り込みで何となく九州工業大学を目指していました。でも、現実として貧乏大工の息子だったので、大学に行けるかどうかも疑問符がついていました。もしこのリハビリ進学の話に乗れば、「授業料0円、寮費0円、食費15,000円でS病院から奨学金も貰える!」という高待遇。リハビリに興味が湧いたわけではありませんでしたが、受験を拒否する理由も見つかりませんでした。受験当日、日本全国から受験者が訪れ、競争率16倍というリハビリ無知な私には驚きでしかありませんでしたが、無知な私はリハビリの門をくぐることとなりました。高校の担任は「お前、本当にこんなところに行くつもりか?」と宣いました。昭和53年、少なくとも私の住む地域でリハビリは皆無の領域展開でした。今となってはリハビリが私の天職となりましたが、なんの意気込みもなく、ただ、目の前に開けた道を進んだのであります。

私が入学したそのリハビリの学校は、労働福祉事業団九州リハビリテーション大学校といいます。九州労災病院に隣接した、当時九州で唯一のリハビリの学校で、PT科21名、OT科21名、3学年の小さな学校でした。私はその学校の15期生となりました。リハビリ職を目指す学友は皆、心優しい「素晴らしい友」だったと懐かしく思います。私がリハビリというものを理解し始めたのは、入学時ではなく3学年となって実習に出て、患者さんに出会ったころからだと思います。織田裕二の名言「事件は会議室で起きてるんじゃない。現場で起きてるんだ!」ですね。ところで学業はというと、再び劣等生で、この私がゆくゆく、NPO法人の理事長になり、大学院博士課程を修め、福祉施設の施設長を務めるとは、誰も想像もしなかったでしょう。

〈就職〉

1982年(昭和57年 21歳)に卒業し、宇佐市のS病院に就職。先任に特例の理学療法士がいましたが、正規のPTは私が初めてでした。大分県北を見ても正規のPTは2名(私と私の先輩)しかいませんでした。約40年前、リハビリテーションはレベル1の勇者みたいなものでした。

理学療法士となって数年後、冬になると県の福祉事務所の事業で、身体障害者手帳にかかわる身体測定のため大分県北一帯のお宅を回っていました。そこで、当時の在宅療養の現場を目の当たりにします。多くの高齢者・障がい者が自宅の中で寝たきりとなり、奥座敷で横たわっているのを目にしました。そしてある時、宇佐市の長洲に出向いたとき、脳性まひの兄弟(20~30代)に出会い、「ほとんど外出したことがない」という閉鎖的な地域課題に遭遇しました。当時、障害児は人目を避け、自宅に隠される傾向にあり、彼らもまさにそのような境遇であったと思います。しかしそれはその家族に悪意があるわけではなく、大切に献身的に介護されていたのであり、後で気づくのですが、時代や地域が未成熟であったが所以であります。

*この課題に関する体験というか薄っすらした記憶があります。全くリハビリ無縁だった私ですが、小学生の頃、障がい者に会っていた記憶があります。ある障がい者(おそらく脳性麻痺)は母が引くリヤカーに乗っていました。私たち(子供たち)は障がい者を「奇異」な目で見ていました。おそらくは当時の多くの人はそうだったろうと思います。当時もっぱら隠されていた障害児ですが、彼は母が畑仕事に行くとき、リヤカーに乗って一緒に出掛けていました。デイサービスもショートステイもない時代です。今考えれば、母の職場に一緒に出掛け、介護を受けながら外出し、母と一緒に過ごす1日は安心であったろうと思います(#^^#)

私は病院にも理学療法士がいない中、地域にリハビリがないことを憂い、地域リハビリに興味を持つようになりました。ただ、ペーペーの理学療法士にできる道は見つからず、ひとまず地域リハビリをテーマに学ぶことを続けていました。当時の県知事に手紙を送り、「行政の中にリハビリ専門職が必要である」と訴えたりしましたが、無謀でしかありませんでした。

〈2足の草鞋〉

平成3年、いくつかの事情が重なり、宇佐のS病院から中津のN病院へ移ることとなりました。その時知り合ったK病院のK理学療法士と一緒に、地域の病院や施設をアポ電取ってめぐる活動を始めました。しばらくしてK理学療法士は大学院へと進みました。その後も私は地域活動を継続し、平成3年10月、地域リハビリネットワークの会という任意団体を発足しました。キャッチコピーは「職場の事業でもない、職種の活動でもない、リハビリの仲間たちの、ゆるやかなネットワーク」。地域で勉強会、講演会、交流会、情報誌「紙ひこうき」発行、住民に送るリハビリテーション講座、ケアマネ予備校などの活動を行い、10年後の平成14年、NPO法人地域リハビリネットワークの会へとステップアップし、私はその理事長に就任しました(^^)/。

平成15年にTクリニックに移り、T医療技術専門学校特別講師、平成16年国際医療福祉大学大学院修士課程、NPO法人地域リハビリネットワークの会では、平成16年訪問看護ステーション「樹の子」開設、中津市の介護予防委託事業にも取り組んでいました。そして、平成19年 NPO法人地域リハビリネットワークの会理事長辞任。

〈リハビリの当事者に〉

平成19年10月、高1の長女が、わき見運転の軽トラックに突然命を奪われてしまいました(≧◇≦)。かくして私は障がい者の範疇ではないけれど、掛け替えのないものを亡くし、理解しがたい、そして理解されがたい障害を持つこととなりました。リハビリテーションが「その人が障害を克服しようとする歩みと、周囲の人がその人を支援しようとする働き、そこにリハビリテーションがある」であれば、確かに私もリハビリの当事者になったのです。

私の支援者は、同じく子供を亡くした親たちであり、犯罪被害者支援センターの方々などたくさんの方々です。お世話になったし、お世話になっていると思います。では果たして、私はどのように克服しようと歩んできたのか? 重い1日をやり過ごしてきただけのようにも思えます。

そして、確かに言えることは・・・

〈放射線形式じゃなくて積み上げ形式〉

医学的なリハビリの世界では3が月や6か月で症状固定、維持期と考えられていますが、私のこの障害はそのような放物線形式回復過程では決してありません。一つずつ生きている意味を積み重ねていくような積み上げ形式の過程(賽の河原って子供を亡くした親の言葉かも)であると言えます。リハビリテーションを総合的に語れば、回復過程は積み上げ方式だと思います。

その後、平成22年国際医療福祉大学大学院博士課程、平成26年特別養護老人ホーム施設長兼事務長、平成28年リハビリテーション統括、現在に至り、デイケアと訪問リハの現場にいます(現場が好きなんですね~(*^^*)。だって、「ありがとう」が多いので。


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