なぜカフェに?(コロナ禍でオープンしたカフェも1年経ったので振り返りその2)

その2はカフェにしようと決めた経緯を、まためちゃくちゃ長くなるけど、それだけ結果までの繋がりが深かったということで、ね。その2まではまだ母の話が多くなるなぁ。

姉と「何かしよう」と話している中で、どうやら食関連の何かっぽいぞ、というのはだいぶ前段階から決まっていました。だいぶ前っていうのはそれこそ私が高校生、姉が大学生くらいの時から。

というのも2人とも母の作るお菓子とお料理は本当に美味しくて大好きで、加えて当初は珍しかったスタイリング(器やカトラリーやテーブルクロスなどのセッティング)も込みで食空間自体を生み出す仕事をしていたので、そんなところも母のセンスを大尊敬していました。

今でこそインスタをはじめ、「映え」の文化があるけれど。日常の切り取りに誰からの承認欲求を満たすものになる前、日常を純粋に豊かにしていこうという試みを母は行っていたわけです。
(ちなみにインスタは姉も私も大好きだし、いわゆるインスタグラマーさんのことは大尊敬しています。カフェを始めてから色んなインスタグラマーさんに会ったけど、大変お世話になっているし、彼ら彼女らの細やかな記憶力と丁寧な仕事、時流を読む力は本当に凄い。)

母がスタイリングも含めて食の提案を出来ることもあり、母のレシピが美味しいからというのは大前提だけど、スタイリストさんを雇う余裕のないテレビマンをはじめメディア系の仕事もどんどん増えていくのでした。住居がスタジオになるというのも大きかったと思う。そんな日を夢見て設計した父は鼻高々だっただろうなぁ。
代表的なものだと3分クッキングや今はなき、はなまるマーケットなど。週間サンデーの表紙を手がけたこともありました。

あと自分の母だがら気がつかなかったけど遺品整理をする中で「あれ?もしかして可愛い??!」という気付きもありました、笑っちゃうね。メディア映えしていたのかな、フフ。

ちゃっかり私も3分クッキングに出ちゃいました。思春期真っ只中の序章期でマセすぎていた私は、超フフン!としながらお友達に"撮影があるから学校を早退するね"と言ったんだろうなぁとめちゃくちゃ恥ずかしい。ちょっと黒歴史。なんて言ったら番組に失礼か。

キューピーちゃんの背中、可愛い。


母の仕事はメディア系の他にも。1番大きな軸として置いていた仕事はお菓子・お料理の教室でした。

お育ちの良いマダムから姉や私の友人も参加していたりして、常時8クラスくらいありました。姉も私も参加したりスタッフとしてお手伝いに入ったり。試食がメインなんじゃないかと思うくらいお喋りに夢中になるクラスも多かったけれど、それはそれは豊かでキラキラとした時間でした。

そして、卸の仕事もしていたので本格的な洋菓子工房を作ろうということになり。せっかくだったら販売も出来るようにしよう!と、2006年に父が設計した1軒家である我が家を改装して、洋菓子工房兼お菓子屋さん「FUMIZ KITCHEN since1989」が出来上がりました。シモキタシマイの前身となるお店です。

いまのシモキタシマイでいう、靴を脱ぐスペースより外側の部分に工房と販売スペースを設けていたので、いま思えばだいぶこじんまりとした空間だったなぁ。

右から2番目は当時大学1年生だった姉、若い!全然関係ないけど痩せたなぁ。笑い。

お祭りのお神輿が通る道に面していたため、当時は子ども神輿の休憩所になっていました。規模は小さかったけど町に開けた、そして根付いた温かい愛されるお店だったと思います。


そんなこんなで姉も私も母の仕事には何となく携わりながら幼少〜青春時代を過ごしました。


1番最初に母の癌が見つかったのが私が高校生、姉が大学生の頃だったのでその時から漠然と、「このまま終わるのは勿体ない」と思っていて2人でどうにかしたいよねと話していました。不思議とこういう話を沢山した日のことを覚えてたりする、懐かしい。


姉と私は凄く仲がいいと思うけど(そもそも5つ離れているので喧嘩とかはない)べったり2人一緒だったかというと全然そうではない。
姉も私も自分たちのことで忙しかった。私は思春期すぎて荒れていた時期もあったし、はたまた恋愛に溺れたり、建築に溺れたり、音楽に溺れたり。溺れっぱなし。姉は姉で音楽にしろ文化にしろ思想にしろサブカルチャーに沼り、海外への関心もビンビンだったので大学生の時も社会人になってからも1/3も日本にいなかった。
という感じで生活はすれ違いまくっていたのでした。むしろ、だからこそ意外と姉と話したことを覚えているのかもしれない。


で、話は超戻って。姉がカンボジアから帰国して、姉、私、旦那さんの奇妙な3人生活が始まりました。なぜだか姉と旦那さんの相性も良く、サークルの先輩後輩みたいな雰囲気で合宿みたいな毎日を1年と少し過ごしました。

漠然と"食関連の何かをしたいね"と思いつつ、今あるリソースでお菓子屋さんを続けてみるのか、はたまたブランディグと広報を強化しまくってオンライン販売に振り切るのか、イートインスペースを設けてカフェをやってみるのか、世界各国の食材をインポート販売するのかなどなど。そしてこれから起こす事業1本でいくのか、どこか組織に所属して副業としてやっていくのか、とかも。

選択肢と組み合わせが無限にあってめちゃくちゃ考える日々だったのだけど、同時に市場を知らなければ何も始まらないということで、手当たり次第バズってるオンライン販売のスイーツを買い、カフェやお菓子屋さんを巡りまくり。一見遊んでばかりのめちゃくちゃ楽しい構想時間を過ごしました。こればかりはもう一度あの時に戻りたいな、と思える楽しかったモラトリアム期間。

姉も私も"取りあえずやってみる"のハードルが低すぎるので、youtubeでクッキングチャンネルをやってみたりもした。何で私たちみたいなド素人のが??と思いながらもコスメ動画は数千回再生が回るので謎に美容系youtuberの真似事をしたり、笑っちゃうけどね。でも取りあえず乗っかってやってみるって大事だよね〜。

そして、まずは組織に入ること(つまり会社員)はやめて本業で頑張ってみようっていうのを決めました。自意識過剰みたいになっちゃって少し恥ずかしいけど、姉も私も組織に向いててある程度の活躍が出来る自負があって(評価してくれた先輩たちと仲良くしてくれた同期のお陰、有り難いよね)、もし失敗しても戻れるんじゃないかと。奢ってるのは重々承知なんだけどね、きっとそうだろう、ということで。
でも要らぬことを言ってくる外野はめちゃくちゃ沢山いて意思が揺らいじゃったりもしたけど。でもそういう外野さんたちは、やったこともないのにあーだこーだ言う人ばかりだったし何より自分のやっている仕事を蔑むような人ばかりだったからそんな人たちのことはシャットアウトすることにした。


そして業態をどうするか、はめちゃくちゃ悩んだ。でも正直色んな事情を抜いたら"カフェをやりたい"というのは明らかで。美味しいものだけじゃなくて、美味しい空間そのものを作り上げたい!という気持ちと興味ががめちゃくちゃあったから。これは前述したような母の仕事を見て、体験してきたから、そして楽しかったからだと思う。
食器やカトラリーや何もかも、隅々まで全部説明できるくらいこだわったお店にしよう、と。

カフェという選択肢は1番お金がかかるし労力がかかるし人員的なものも考えていかなくちゃいけないから大変なのは重々承知だったんだけど、何を検討しても心躍るのは段違いで「カフェをやる!」なのであった😵‍💫迷ったら"心躍る"を選択するのは、間違えないかどうかは謎たけど後悔しないのは本当だと思う。あと"心躍る"の賞味期限って意外と長い。


そして、裏裏テーマくらいに、父が設計して建てたこの1軒家を使っていくこと、母の仕事を継承することで、両親のやってきたことを昇華(私たちにとって消化でもあるかな、一種の成仏的な)させたい気持ちもあったか。ただこれはあくまで裏裏テーマであって全面的に全く新しいブランディングを図っていきたいということではあったんだけどね。でも姉にも私にも(当たり前かもしれないが)今もなお、そしてこれからも両親のスピリッツが生き続けている🔥


といった経緯で「カフェにしよう」が決まりました。その3はシモキタシマイが出来上がるまでを書こうかな。

そもそもこうした振り返りをしようと思ったきっかけは、卒業した製菓学校から講義に登壇しないかという超有り難いお話をいただき、ここに綴ったことを伝えるわけでは全然ないのだけど、ちゃんと細かく振り返りをしておかないと、話せないよなぁと思って。ちょうど1年経ったとこだったし、いい機会でした。

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