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光る体

夕方、子どもの足の裏のまわりがピンク色に光っていた。

足の間に子どもを座らせて、ふたりで窓に向かって足を投げ出してぼんやりしていたときだった。淡く、ぼわーっとした光に目が釘付けになった。

思わず手を伸ばした。手のひらにすっぽりおさまる右足。湯たんぽみたいにあったかい。子どもが「キャイ」と笑う。眠いんだね。もうすぐお風呂だよ。

足の裏の赤みが白いラグに反射して、たまたま周りがピンク色に見えるだけなのかもしれない。そういうのってよくあるし。黄色い服を着てたら、なんとなく体の周りが黄色く見えるとか。

そう思ってもう一度最初の姿勢に戻り、同じ角度でみてみた。

光っている。

足を覆うように、淡く発光した帯ができている。これはもう、光っている。

けれど次の瞬間、声が聞こえてきた。

「科学的にはあり得ない」

「錯覚に決まっている」

夫の声だった。言葉にしづらい曖昧な感覚にそう返されることが多かったからかもしれない。

でももっと耳をすませてみると、そう言っているのは夫の声じゃない。自分だった。

子どもの頃は、「そういうこと」は特別なことじゃなかった。

ブランコに乗ってると感覚がリセットされて何もかもが初めて見たものにみえること、友だちも親も兄弟も初めて会った人にみえること。誰もいないはずの2階からミシミシ足音が聞こえること、夢の中で自由にあそぶこと。

当たり前だったことがいつからから人に「かんちがい」といわれるようになり、やがて自分で自分にそういうようになってしまった。ブランコはそのための乗り物だったし、2階で音は鳴ったし、夢の中はいつも自由な空間だったのに。いまだってほら、光っているのに。

光る足をばたばたさせる子どもの頭を撫でる。大好きな匂いが鼻の奥までやさしく届く。

全部吸い込むと、自分で踏みつぶしてきた場所がむずむずと動くのを感じた。

なんで、なかったことにしてきたんだろう。たったひとりの「私」が感じたことなのに、みたことなのに、「私」がそれをなかったことにして踏みつぶして土の中に埋めてしまったら、誰も気づかないまま消えてしまう。「私」はどんどん埋まって、ますます息をしなくなってしまう。なんでそんなことを長年してきてしまったんだろう。

まだ間に合うかな。さかのぼれば20年以上、30年近くそういうことをしてきてしまったのだから、わからない。もう遅いのかもしれない。

それでも、もう目の前で起こったことをなかったことにするのはやめにしよう。

ちゃかしたり、「勘違いだってわかってるんだけど」と長い長い前置きをしてから話すのももうやめる。

ただ、自分の中で認める。誰かに理解してほしいとか伝えたいとかそういうことじゃなく、自分の感覚を自分で踏みつぶすのはもうやめる。もうなかったことにはしない。

顔をあげたら夕焼けで、お風呂の時間で、子どもがまた「キャイ」と高い声を上げた。足はあいかわらず光っている。

光ってるね、と声をかけてみたけど、子どもは亀さんのおもちゃに夢中でかじりついていた。この子がやってきて200何回目かの日が今日も暮れる。


‥‥


追記

あんなことを書いてから一週間、さっそく絵日記からテキストに変わりました。なんらかのかたちで毎週更新していければとおもっています。



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