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「牧師夫人の徒然なるままに」(八二五)「地上に残すものとは」(その1)

 若かりし日にライバルだった友人たちが、一人、二人と天に召されていきました。地上に生存したという有形無形の証しを残したまま。しかし、残念なことには、その証も、時とともに、無用になり、人々の記憶からも消されてしまう運命にあります。

 数年前に、私の両親も召され、その住まいを譲り受けた弟夫婦が、残された遺品の数々の後始末に大変な労力を費やしたと聞かされました。両親にとってはどれも捨てがたい記念の品だったのでしょうが、その子や、ましてや孫の世代には、どのように扱ってよいのか、おそらくは苦慮するものでしかなかったようです。

 著名な作家の未発表の作品や、手紙が見つかると「その作家と作品理解のための重要な資料」ともてはやされて新聞の紙面を飾ることがあります。人類の文化に少なからず貢献した人々へのそのような扱いは当然でしょうが、凡人である私たちにはそんな栄誉はめったに与えられません。

 私は、紙の資料をファイルする習慣があります。読書会の資料や、日々のディボーションの日記、峰町に赴任した時からの教会のクリスマス、ジョイフルクリスマス、ゴスペルジェネレーションのナレーション記録等々。それらは私が果たしてきた奉仕の記録です。でも、私以外の人には何だというのでしょうか。(続)

安食道子

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