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「顔の使い分け」に疲弊する現代だから。

複数の人格があって当たり前の社会で

人は常に人格を使い分けている。教室で、職場で、家庭で、ネットの中で、振る舞いを器用に変化させる。それは決して「裏表」などではなく、自分という球体に当てるスポットの位置を適切に調整し、場や相手によって見せ方を変える行為だと思う。

それはすなわち、私たちに見えている誰かの「顔」は関係性やその場での所属に依拠しているため、他のコミュニティにおける顔を見る機会がほぼ無いということも意味する。

友人の職場での顔、上司の家庭での顔、恋人のネットの中の顔……どれもなかなか知り得ない。しかし自分と相手との関係性は基本的に一義的なので、知らなくても特に問題はなさそうだ。

SNS別「顔の使い分け」

少し話を変えるが、今私が暮らしているフィリピンは「SNSといえばFacebook」という社会だ。日常的にFacebookに投稿する日本人はあまり多くない一方で、フィリピン人は世代や性別を問わず、誰でもなんでも、Facebookにバンバン載せる。

私はメジャーなSNSは全て利用しているが、その中でもFacebookというプラットフォームは「顔の使い分け」には大変不向きだと感じる。

例えばTwitterについて言うと、複数のアカウントを持つことが可能なので、ユーザーはコミュニティごとにアカウントを切り変え、まさに「顔の使い分け」を行うことができる。趣味垢(アカウント)、ヲタク垢、はたまた美容垢……なんて言葉の存在も、それを示している。

またInstagramにおいては、そもそも「顔の使い分け」が求められること自体が少ないと思う。というのも、語弊を恐れない表現をすれば「充実している私の日常」を披露するメディア的要素の強いプラットフォームだからだ。投稿を見せる友人がどのコミュニティ内にいるかはあまり関係ないように思うのだ。

大学入学と同時にTwitterのアカウントを新しく作る人は珍しくないの対し、Instagramの複数アカウント使い分けはまだメジャーではないのも、その一つの表れだと思う。

とはいえInstagramが新興SNSではなくベーシックとなった今、使用形態も多様化しており、こうした考察が的外れになる日もきっと近い。最近は投稿を見せる相手を限定する機能が搭載されたくらいだ。

それに対しFacebookは、原則一人一アカウントの中で、全ての知人と繋がらなければならない。コミュニティごとの人格に紐づけて無限にアカウントを持てる他SNSに対し、Facebookのアカウントはほぼ自分そのものを示す。だから、友人とのお出かけも、恋人とのデートも、職場の仲間との一コマも、家族の時間も、全て同じプラットフォームで披露することになるし、実際私のFacebookタイムラインの多くを占めるフィリピン人の投稿はそんな感じだ。

フィリピンで感じる公私混同文化

こうしたFacebook文化にも反映されているように思うが、フィリピンは日本と違って公私が自然に混ざり合うことが多く、「顔を使い分ける」意識があまり強くないように思う。

仕事の円滑さと私的コミュニケーションの円満さの関係はものすごく密接だし、現地のバイトの働き方のあまりのラフさ(バイト中の私語は当たり前)なんかを見ていると、「職場では顔を切り替えなくては」という意識が薄いのだろうと考えたりする。

顔を使い分けないだけでなく、職場に子どもを連れてくる教師がいたり、若者が別コミュニティの友人を一堂に集めてみたりと、「所属をまたぐ=同時に二つ以上の顔を見せることになる」場面もしばしばあるのだ。

そして、このようにフィリピン人がインターネットの内外で様々な顔を見せてくれるのが、私は結構好きだったりする。仕事で接する大人の方が、休日の家族とのお出かけで見せる優しい父親/母親の顔。普段私を助けてくれる友人が、他の団体で活動している時に見せる凛々しい顔。そういう普段知り得ない一面に触れるのが、なんとなくきゅんとして好きなのだ。

「親の顔」しか知らない子

そもそもこんなことを考え出したのは、昨日の母の日がきっかけだ。今離れて生活する母のことを改めて思った時、「私は母の『母親としての顔』しか知らないな」と気付かされたのだ。

というのも、私が今現地で一番お世話になっている男性がちょうど母と同い年なのだが、私はその方の上司としての顔も、父親としての顔も、友人といる時の顔も見たことがある。それは先述のような、リアル・バーチャル問わず様々な姿を見せる機会に恵まれたフィリピンゆえだ。

母にも、職場や友人の前で見せる顔が様々にあるはずだ。しかしそれに想いを馳せてきたことは、これまでほとんどなかった。

「親になって初めて親のありがたみが分かる」というのは、子育ての苦労を知るのに加えて、親が自分の前で「親の顔」を貫いてくれたことに気付くからかも知れない。子を育てるという責任の下、親としての態度を保ってくれていたこと。そして自分に見せていた姿の他に、一人の人間として様々な顔を持っていたこと。それを理解した時にその難しさが身に迫ってきて、感謝が一層深まるのではないかと想像する。

「他所での顔」を意識するほど寛容になれる気がする

他人の有する顔を複数知っているということは、その人の多面性をより理解できるということだし、その分相手に対して寛容になれる一つのヒントではないだろうか。

どんなに上司にきついことを言われても、その人の父親/母親としての顔を知っていれば、その発言がこの関係性、もとい立場による責任から来るものだと想像できる。上手く接することのできない友人がいても、彼/彼女の他コミュニティでの顔を知れば、「自分に見せている顔はほんの一部なんだ」と気づき、自らの態度を変えることで関係を改善できるかも知れない。

自分と相手との関係性は一義的に定義できるのだから、他での人格を知らなくても特に問題はなさそうだ、と冒頭に書いた。しかし、相手が多様な人格を抱えながら、自分の前では特定の顔だけを見せ続けていること、そこにフラストレーションが潜んでいるかも知れないこと。それらへの無意識は、いつの間にか関係性をほつれさせてしまうかも知れない。「妻が出産後『母の顔』になり夫は戸惑ってしまう」みたいなケースも、このあたりに起因すると思う。逆にその点への想像力があるほど、より豊かで思いやりある関係性が築けるのではないだろうか。

多面性を愛し、愛されるのは難しいけど

フィリピン人は、自分という球体を照らすスポットが日本人より広範囲なのではないかと思うことがよくある。「他所での顔」に思える部分までひっくるめて、その人自体を受け入れられる雰囲気があるのではないかと思う。

こうした態度を取ることは簡単ではない。100万円企画で前澤社長をフォローしたTwitterユーザーが、企画が終わり、関係のないツイート(本来そうしたツイートまで含めて彼の要素なのに)が始まった瞬間にフォローを外す……のはちょっと特殊な事例だが、自分の求める顔以外を見ることを面倒がる、または嫌う人が多いのは事実だ。

そうした例でなくても、企業や個人の広報が統一感やブランディングを大事にするように、ターゲットの求める姿を提示しそれ以外を適切に隠すことは、どうしても必要な行為だ。生身の人間同士の付き合いでも、少し悲しいけど、きっと同じことが起きる。まるごとひっくるめて愛してもらうなんて簡単なことではないし、そんな相手が何人かいたら人生は幸せだと思う。

「相手の求める姿を演じ続けていたら、本当の自分が分からなくなった」なんて話もよく聞くが、それは自分の一面だけを照らして見せ続けていたら、他の側面が見えづらくなり、多面的な全てをひっくるめて自分だということを忘れてしまうからではないだろうか。

どのコミュニティ内の自分も、どんな相手に対する自分も「側面の一つ」として受け入れること、そしてそれら全てが合わさって自己を形作ると自覚することが、とても重要なのではないだろうか。

人は誰しも他者から承認されたい。その為に行う努力は、とても人間らしい。しかし、だからこそ多様な角度から自分を照らし続けてあげないと、自らが翳っていくような、そんな感覚に陥ってしまうのだと思う。

自分についても他人についても、全ての面を愛し、愛されるのは難しい。しかし効率や完全さを突き詰めた時、人間の複雑な豊かさはないがしろにされてしまう。多様な人と気軽に繋がれる現代、自分の力で世界を広げられる現代だからこそ、そう心に留めていたいなあと思う。

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追加:この記事を読んでくれた人から、関連する面白い記事を教えてもらいました!すごく響いたのでリンク貼らせていただきますm(_ _)m

#ミレニアルnote #フィリピン #SNS




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