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「意味のない仕事」に意味はあるのか

世の中には意味のない仕事と言うものがある。

ある活動によって価値を生み出せない仕事は、大体意味がない。例えば、誰が得するのか分からないけど、なんとなく仕事っぽいからやってみることとか。とりあえず雇用を与えるためだけに維持されているようなものとか。

私はSEOライターの仕事をフリーランスとしてやっているが、その中の多くが「意味のない仕事」だ。

SEOについてはそこそこ詳しくなったので、どういう記事を作成すればその記事が検索上位に表示されるかといったものはなんとなく分かる。ものすごく努力を重ねて1本の記事にした結果、なんとか上位に表示されるかどうかという厳しい世界なのだ。

1本数万というお金を払って、10時間とかの時間をかけて制作して、それでどうかな、というレベルの話である。

だけど、私に仕事を与えてくれる企業の多くはそんなにSEOに詳しくない。だから、どんな感じの記事を書かないと上位に表示されないかということは良く分からっていない。

その結果、1本数千円とかで仕事を発注する。記事のボリュームも少ないし、そもそも記事に対してのレベルの話にはあまりならない。「検索上位に表示させる」ことが目的というよりは、「SEOっぽい記事」を制作することが目的になる。これでは絶対検索上位に表示されることはない。ということは全然意味がない仕事、ということになる。

つまり私は、「この仕事って意味ないよなあ…」って思いながら日々の仕事の多くをこなしている(もちろん、上位表示を専門的に目指している企業もあるが)。

ところで、私が記事を制作または編集しているときに「意味がない」と思っていることを、私に仕事をくれた人は思っていないのだろうか、と考えてみた。実は、私の直属の担当者(上司みたいなもの)もこのように記事を量産することで、メディアが有名になるとまでは思っていないような気がする。

つまり、「今の時代SEOに対応したメディアを作るのはセオリーでしょ、とりあえずやってみるか」という気持ちで、マーケティングではなく惰性でやってしまうというわけだ。

私が「これって意味ないよなあ」って思っている仕事は、実は発注者側も「意味あるんだかないんだか」って思って作っている、というわけだ。

で結局どうなるかというと、そこそこの資金を投じたにも関わらずあんまり効果が見られなかったので、「まあ、このへんでやめておくか」という流れになり、メディア制作が打ち切られる。今のWeb業界は、こんな感じで全然意味がなかった記事たちの墓場になっている。その中には私が制作した記事もたくさんある。

今まで、私は特にこのこと自体を問題に思っていなかったが、自分のしている仕事が意味がないって、良いのかな?と急に考えた。

そこそこSEOの知識を持っているから、私自身はそこそこ儲かる。他の人よりも仕事が早いので、時給換算するとかなりの額になる。濡れ手に粟の仕事である。でも、その大半は意味がない。意味のない仕事は、いつかなくなっていくだろう。

もちろん、一口にSEOといってもいろんな企業があって、ガチでマーケティングのひとつとして取り組むのであれば全然話は別だ。Googleの検索上位に表示ができればマーケティングの効果は当然絶大なのである。問題はそれが、氷山の一角だということだ。

ところで、私が思うにこれはSEOだけの話ではないような気がする。たまたま私がやっているSEO記事作成の仕事だけが意味がないわけではなくて、世の中の多くが「実はあんま意味ないよね」ということなんじゃないか。

例えば昔ながらの事務用品を作っている会社の場合。最近ではペーパーレス化が進んでいるので、ペンとかノートとかはあまり売れなくなっていると思う。そんな中で工夫して面白い商品を作っている会社は伸びているかもしれないが、そうでもなく今までと同じような文房具を作っている会社は、たぶん全然意味のないことをしている。そして、そこで働いている従業員も「これってあんま意味ないかも」と思いながら、ペンの新色なんかを開発しているのではないか。

または出版業界とかでも、誰が読むんだかわからない書籍に予算をかけて制作していたりする。そういう書籍にイラストレーターとして入ることもあるが、それもある意味で「意味のない仕事」なのかもしれない。

じゃあ、そういう「あんまり意味のない仕事」はやってもしょうがないのか、というとそうではない。たぶん。

ビジネスの世界と直接関わらない場合も多いけれど、例えばスポーツの世界でも同じかもしれない。プロスポーツ選手になれるのは競技人口の中のほんの一握りだけど、だからと言って下の方にいるアマチュアの人達がいなくなったらプロスポーツ全体が衰退していくに違いない。

SEO記事も、誰もが頑張っていい記事を作ったところでどうせ日の目のみるのは5本くらいの記事なのである。まさに世の中、パレートの法則ってわけだ。だから別に、自分の仕事が意味なかったとしてもやっていてもいいのかもしれない。

とはいえ、じゃあ、私がパレートの法則の8割側にいることに甘んじてもいいものか。そこが一番の問題だ。

現時点で私は、記事制作においては「1位を目指す」仕事もしてるけど、そうではない「意味のない仕事」も増えてきた。稼げるからといって、意味のない仕事をしていて、Webの墓場にたくさんの記事たちを送り出してもいいものか。

現時点での答えはない。別にWebライティングは私にとってはお金さえもらえればいいのであって、その点に関しては特に現時点では不満がない。とはいえ、価値がないから安いのであれば維持もできようが、価値がないのにそこそこのお金を払っているのは業界として問題かもしれない。これだけ意味のない仕事と化してしまったSEOライティングなので、今後も同じように仕事をもらえるかといったら話は別だ。

もちろん、できれば自分の仕事はいつも意味のあるものであることが望ましい。それが理想だ。しかし、別にそこにこだわりすぎる必要はないのかもしれない。

問題なのは、自分の仕事に価値がないのに、お金がもらえるからと言って価値があると誤解することだ。それをやってしまうと、将来世間が価値の無さに気付いた時に自分の価値(だと思っていたもの)が終わってしまう。

自分の仕事そのものに価値があるのか、それ対価は適切であるか。本質的な意味での価値を念頭に置いておくと、社会全体の流れからみた自分の現在地みたいなものが俯瞰しやすいかもしれない。

とか、そんな風に思った。ではまた。

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