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home

自分の居場所をつくる、というのは、何も外側のことばかりではない。
誰かと一緒にいるとか、家がどこかとか、ここはいていい場所なのだろうか?と思い惑ったりするのは、大抵は自分の外側のことだと思う。
けれども、自分の内側に自分の居場所をちゃんと認識していない、ということの方が、外側に居場所がないよりも、よっぽど、生きづらくなると私は思っている。
(いや、もちろん、外側に居場所がなかったら、生きるのが大変であるのは間違いはないですが・・・)

ここがhomeだ、という感覚があり、すぐにそこに戻ってこられるという人がどれだけいるだろうか?
パソコンのホームボタンを押したら、ホームが一瞬で出てくるように、自分homeにすぐに戻れる。
心身ともに静かで落ち着いていて、しっくりくる場所。
余計なことを必要とせず、モヤモヤしたり、ざわざわしたり、イライラした出来事があっても、それはそれとして置いておける場所。
一番、自然で楽な呼吸ができる場所。

ここにいつも、一瞬で戻ってこられればいいのである。
揺れ動き、思い惑い、すぐに離れてしまうけれども、ああ、ここ、私のhomeじゃないなって気づく。
気づいて戻る。
その繰り返し。

homeがわからなくなるのは、その場所を自分がわかっていないからである。
その感覚を失っていたり、外に探しに行ったり、違うものになろうとしたりしていると、どんどん迷路に迷い込み、戻ってきづらくなる。

だけど、どんな人にも必ず自分のhomeがあるので、そこを思い出して戻ってくるだけだ。
それをひたすらやる。
身体の調整をしながら、心も調整する。
ひたすらやると、感覚がインストールされてくる。
ここだ、というのが自分のものになると、今まで持っていた感覚が書き変わってくる。
感覚は、ここまできて、初めて信じるに値する。

その前にいくら自分の感覚で・・・とやっても、homeじゃないとこの感覚でやっていたら、別のところにいくのは当たり前なのだ。
でも、自分では自分の感覚しかわからないから、いつも違う場所にいって、こんなはずでは・・・というパターンが回ってしまう。
自分の感覚は、本当のhomeではないかもしれないという視点で、みていくといいかもしれない。
私は、そうした。
自分の感覚では、大丈夫だと思ったのに、全然安全じゃなかった、という体験が多かった。
トラウマ的愛着を持っているとそうなりやすい。
トラウマ的愛着とは安全を与えてくれる人から危険を与えられると、助けを求めると同時に防衛機能が連動して発動するものだ。
防衛機能は、闘う、逃げる、凍りつく、服従する。神経系がその反応を示すので、人間関係も育みにくくなる。

神経系の反射的な反応は、身体に残っていて、それが自分の感覚になってしまう。
その感覚で生きると、安全を感じ近づきたい人に、全力で防衛反応を出して関わることになる。
防衛反応を出されると人は近づけないので、離れていく。
負のループの始まりである。このパターンから抜けるには、自分のhomeがそこじゃないことを知らなければならない。
そして、その偽homeではなくて、本当に安全で落ち着ける、自分のhomeを取り戻す必要がある。

で、これ、一朝一夕に取り戻せない。残念ながら。
気づいた時は、30年以上経っている、みたいな方が多いから。

それでも、自分のhomeを取り戻すことは、やる価値がある。
わたしが、わたしで生きるために。
わたしらしく生きるために。



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