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自閉症の子どもを育てる④

小学校に入学する

小学校では、特別支援学級に入学した。
担任は、まだ20代の若い男性だった。

彼の入学前には、その小学校に特別支援学級はなかった。
小学校の校長は、市の教育委員会と交渉して教室と先生を確保してくださったのだ。
特別支援学級には種類があって、知的クラスと情緒クラスがある。

知的クラスはさまざまな理由で一般教室で授業を受けられない子が、個人の状態に合わせて抜き取りを中心に「学習」することを主たる目的としていたようだ。
情緒クラスでは、発達障害を中心にお勉強はもちろん、コミュニケーションを含むさまざまなことを学ぶ。

保育園では、障害のあるなしに関わらず進路相談というのが個別にあり、そこに進学予定の校長先生も参加する。
校長先生は、そこで得た情報をもとにクラス編成をするらしい。
校長先生も大変だなぁと、その膨大な仕事量を推測して気の毒に思った。

クラス編成にあたり、協力学級(一般クラス)にいてほしい児童はいますか?と聞かれた。
NちゃんとかK君とか、特に仲良くしてくれる子どもの名前が浮かんだが…。
「特にありません」と答えた。

彼を知っている子どもが誰か1人でもいたら、彼にとってはそれはそれは安心なことだけれど、その子にとっては負担かもしれない。
小学校には他の保育園や幼稚園からも入ってくるので、同級生にとっても未知の世界なのに、そこまで負担はかけられない。というのが仲良しの指名をしなかった理由だ。

誰にとっても新しい環境というのはドキドキするものである。
希望もある。同じくらい不安もある。
保育園で遊んでくれた優しい子どもたちに、わずかな負担も感じてほしくない。
我が子はなんとかなるだろう。特別支援教室に逃げることもできるし、なにより時間やノルマの拘束をうけないのだから。

それでも校長は、保育園の先生から情報を聞き出したり、何度か保育園を訪れて一緒に遊んだりして、彼の状況を確認してくださったようだ。
小学校の協力学級にはNちゃんもK君もいた。
「お母さん、大丈夫です。子どもたちを信頼しましょう。」
入学式のあと特別支援学級情緒クラスの教室で、校長は豪快に笑った。

小学校は登校することから始まった。
集団登校に参加する。教室に入る。先生に挨拶する。帰る。
集団登校は、彼には負担が大きかったようだ。
玄関を出ようとせず座り込んでしまう。車で送っていくと機嫌よく学校に行けた。

てんでバラバラに喋る子どもの声とか時には泣き声とか。6年生の歩幅にあわせた速度とか。いろんなものがいっぺんにやってきて、処理できなかったのだろう。
親と2人で何度も練習した道ではあったけれど、集団登校はできなかった。
車で送るようになると、あっという間に半日登校ができるようになった。

特別支援教室には、パーティションがなかった。
彼は1人になりたいときに机の下にもぐっていた。
たまたま迎えに行ったとき、それを見た私は仕切りの必要性を感じた。休憩室の確保である。
それで学校に許可をもらい、パーティションとソファ、敷物とハーフケット、上履きを置くためのボックス、お気に入りの絵本などを持ち込んだ。
これらは、寄付という形ではあったが在学中は彼の個人スペースとして使うということだった。

外的環境がほぼ整ったGW明けから、担任の苦悩は始まったと思う。
家庭訪問では「がんばります!彼のことを色々教えてください!」と目を輝かせていた若者は、日を重ねるごとに元気がなくなっていった。

あら。これはヤバイんじゃない?
先生が先につぶれちゃう。

この先生は採用試験に通ったばかりで、実質的な教師経験がなかった。
そして、理想に燃えていて、手抜きのできない真面目さと、子どもというものに対して愛情を持ってる努力家だった。

自閉症の本を読みあさり、良いと言われるコミュニケーション手法をどんどん取り入れ、自身で教材を作り、指導計画を練り直し…。
あんまり寝られてなかったと思う。
それでも、彼には届かない。

6月のある日、うちに来た先生は泣きながら「心が折れました。」と言った。

「折れますよね。しょうがないです」
と言った私の言葉に、先生は少し驚いていた。

折れて当たり前です。あんなに一生懸命やってくれてたら。
親としては、先生の熱心さはありがたいし本当に感謝してます。
でも先生にも楽しんでほしいのです。
先生、いま、彼と一緒にいるのが苦痛でしょ?
3日ほど休ませるから、その間はできたら一般の子どもたちと触れあってください。
なるべく子どもたちと遊んでみてください。
お勉強じゃないですよ。お昼休みとかに遊んでください。

そう言うと何か思うこともあったようで、先生は頷いていた。
夜に校長先生から電話があって、一言「ありがとうございます」と言われた。
ありがとうと言われることはしてないし、差し出がましくすみませんという気持ちだった。

その週は学校を休ませ、映画を観に行ったり、ダムを見に行ったり、親水公園で水遊びをしたり。
楽しく過ごした。

月曜日に登校したとき、先生の目は輝きを取り戻していて
「お母さん!ありがとうございます!僕は大事なことを忘れてました!すみません!」
と、元気よく言った。

校長先生が寄ってくれというので、校長室でMorozoffのクッキーをいただきながら、休んでる間の先生の様子を聞いた。
初日ぐったり。2日目のんびり。3日目しゃきしゃき。
そんな感じだったようだ。
よくぞ3日で立ち直ってくれた!ありがとう!
先生が校長に泣きついた時、校長がうちに行くようにすすめたらしい。
校長先生って、だてに校長先生してないんだなぁと思った。

重度知的障害を持ってる自閉症、しかも言葉の獲得ができてない段階で、他人が何かをさせようと思うと心が折れる。
何かをさせようと思ったら、本人からの信頼を得ることが、じつは一番の近道なんだと思う。
それにはまず、教える人が彼と遊びたい、一緒にいたいと思ってもらえないと絶対に無理。

幸い、先生はそれに気付いてくれて、彼と一緒にお互いが快適な時間を過ごせるにはどうしたらいいかを考えてくれたようだ。
当面は一切の「お勉強」をせずに楽しく過ごすことになった。
暑かったので、お昼休みに中庭で家庭用プールを出して、ほかの子どもたちと一緒に水遊びをするなど、一般の児童との交流も考えてくれた。
夏休みを迎える頃には、彼は先生と学校が大好きになっていた。

洋服に対する耐性?ができてきたのか、着られるものが増えた。
体操服が着られるようになった。裏返しだったけど。
シャツ系のものはまだ難しく、首の回りが真っ赤になるので着られなかった。

食事のこだわりはまだまだキツく、母は毎日お昼に食べられるものを詰め込んでお弁当を持って行っていた。
温度にもこだわりがあったので、冷たいお弁当が食べられなかったためだ。

ほんと、何から何まで贅沢なこどもだ。

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