わたしのラ・ラ・ランド

一生のうちで忘れられない恋というのはそれほどあるものではないと思う。ほんの数日交際しただけでも忘れられない人になることもあるし、長い期間過ごしても二度と思い出したくない人もいる。
それは恋している時間ではなく、恋の濃さではないかと常々感じているのだ。いや、あまり濃くてもぬかるみにはまったように抜け出せなくなるし、逆に薄すぎると、その存在自体も記憶の中からすっかり消え去ってしまうのかもしれない。そのあたりのさじ加減は誰が決めるのか、それはきっと一生わからないと思っている。

【春】
合コンに明け暮れる日々を送りつつ、全く彼氏が見つからなかった頃、わたしは大学の同級生から進学塾のアルバイトを紹介された。それは毎週日曜日に行われる小学生向けの模試の試験監督で、朝、その塾に向かい、そこで担当するクラス別に試験用紙を仕分けし、それぞれが教室に持って行く。そして席に着いている子供たちに配り、100分ほどの試験の間監督をするというものだった。アルバイトに来ているのは東京在住の大学生ばかりで、地方出身者はわたしだけだった気がする。

「ちゃんと代々木の駅を降りてそのまままっすぐ来てよ」

と言われたのに、すっかり駅前で迷って、その塾に通う子供に塾の場所を聞いたことは、その後しばらく仲間の笑い話のネタにされた。
アルバイト学生の中に一人、わたしと同じ黄色い電車で通う男子がいた。同級生によると

「あの子は国立に住んでいて、中等部からA学院大のおぼっちゃまなのよ。お父さんは自動車会社のエンジニアなんだって」

らしい。これについては後からかなり見栄で固められていたことが明らかになるけれど、とりあえずその男子のことが気になり始めた。なんせ必須アイテム「眼鏡」をかけている。
わたしはその男子がいつも早い電車でやって来ることに気づき、毎週日曜日は、朝ごはん抜きで6時25分西荻窪駅発の黄色い電車に乗ることにした。もちろん車両は離れているが、その男子の姿を見ると今日もアルバイト頑張ろう!という気持ちになるのだ。勉強はしないけれどこういうところには力が入る。(この時点で国立から来るのになぜ黄色い電車に乗っているのか知る由もなかった。国立から来るならオレンジ色の電車で行けるところまで乗り、そこで黄色い電車に乗り換える方が効率がいい)そして代々木で下車すると、微妙な距離を取って塾まで向かい、その建物内に入った時に、あたかも今気づいたかのように

「あ、おはようございます」

と言い合う日が2か月くらい続いた。もちろんアルバイト中に目が合うこともないし、会話を交わすこともない。その男子の口から飛び出す東京言葉は洗練されていて、わたしが育った町の同級生の方言とは格段の差があり、とても魅力的だった。

「まったく、困っちゃうんだよ」→「ほんとに困るだに」(いやだ、いやだ、絶対に東京では使いたくない)

「それ、どこにあったの」→「それどこにあっただん」(ダメだ、やっぱり使いたくない)

そしてある日曜日の晩、アルバイトを終えてアパートでくつろいでいると、家の黒電話が突然鳴った。アパートには電話台がなく、ただ部屋の畳の上に直接電話機が置かれていたので、「ジリリリリーン」というものすごい音が響く。同居していた姉は、絶対に自分宛でないと知っているのか出ようとしない。わたしは何となくいい予感を感じ取りながら「もしもし」と電話に出た。
電話口から聞こえてきたのは、午前中まで一緒に塾で過ごしていた聞きなれた声、でも面と向かって聞いたことがない声、そして待ち焦がれていた声だった。

「あの、ぼくだけど、明日からだあいてる?」

「ぼく」が誰かとか言わないし、今電話に出ているのが誰かとかも確認せず、「からだあいてる?」という質問である。よかった、姉が出なくて...。

「うん、あいてます。」

頭がぼーっとしてしまったわたしは、そういう細かいことは一切気にせず即答した。

「じゃあ6時半に吉祥寺のロンロンの入り口で待ってるね」

これってもしかして「デート」の約束なんじゃないかしら。あの夢にまで見たデート!バスハイクで転がって失敗し、医大生とは話が全く合わなくて失敗し、誘われて行った映画がつまらなくて失敗した「デート」だよ!!
いつもは怖い姉も

「なんかいいことの電話でしょう?」

とニヤニヤしている。アパートは一部屋しかないので、内容は丸聞こえである。

「うん」

わたしもニヤニヤして応える。明日は何を着ていこうか、何を話したらいいいんだろう、などと考えながら、西友で買ったせんべい布団にもぐりこむと、やけにふかふかした感触を覚える秋の夜のことだった。

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