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世界共通の言語としてのアート

「デストピアを想像してごらん、もしあなたが活動を続けなかった時の世界を。」

そうお告げいただいた事がある。

デストピアか。
私にとってデストピアはジョージオーウェルの小説「1984年」のような世界だ。

思考すらも制限されてしまう、このような状況において、芸術は権力の象徴として利用されるだけだろう。その世界には、自由も創造性もいらない。
ただ、社会の歯車として、生きるために生きていく生活だ。

「1984年」では、辞書の改訂が繰り返し行われていた。年々言葉の数が減っていく。
それは、人々の思考の範囲を狭めるためだ。

辞書の言葉を年々減らしていき、やがて、人から考えるということすら奪ってしまう。
思考犯というものさえ、生まれなくなる世界に行き着く。

以下「1984年」p82,83より抜粋
「言語が完璧なものになった時こそが〈革命〉の完成。—-
自由という概念が無くなってしまった時に、〈自由は隷属なり〉といったスローガンなど掲げられるはずもない。
思考風土全体が変わるのだよ。実際われわれが今日理解しているような思考は存在しなくなる
正統は思考することを意味するわけではない。
その意味するところは、思考する必要がないこと。正統とは意識のないことなのだ。」

私はこのような状況、世界を避けたい。言葉が減る事を避けたい。

私はアートが世の中に溢れる世界にするために、様々なアートプロジェクトの運営に携わっている。

私が今の活動を辞めた未来はどうなのか。
どんなデストピアに近づくのだろうか。

私はアートは一つの、英語をも上回る「世界共通言語」だと思っている。そして、アートは、魂が自由にぶつかれる場だと思う。アートという表現が減る事、いわゆる世界共通言語が減る事は恐ろしい。思考の限が狭まってしまうことだから。

1984年のような「言語」を狭められていく世界になっていないだろうか。アートも言語の一つ、知らぬ間にアートという言語が減っていないか、常に違和感に敏感になっていたい。

気づかないうちに、デストピアに近づいていないか。一人の表現者として、世界から表現の自由が減っていないか、常に意識していたい。

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