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人と人の間には引力が存在するのか

なんかときに人の間に引力がある感じがすることってありませんか?私達はなんとなくあるのです。それが引力がなにを原因として発生しているかはよく分からないのです。たまにそれは人じゃなくてものとか趣味だったりもしますよね。

もしかしたら、その人の雰囲気や香り、話し方、見た目とかいろいろな原因が引力を引き起こしているのかも知れませんが、言葉では表しづらい感覚というのもあったりする気がするのです。私達がこうなった始めはじつはそんな感じ。お互い何かを感じとり、出会い、今にいたります。この感覚も振り返ってみれば、いろいろな要因がある感じがします。そしてそれらがグチャグチャに混ぜ合わさって、「あ、いいかも」ってなるような、、

パートナー関係に限らず、友人関係も同じですよね。引力という名の趣味が同じだったり、目指している何かが同じだったりすることで、より人たちは結びつきやすくなる。職場とか学校、地域の人とか、他者が受動的に設定される環境はまたこれとは違うかも知れないけど、最近はより能動的傾向に近づいているんじゃないかななんて感じたりもしています。

例えば、住む地域を自分が好きなところに選べるようになったり、仕事も選べる幅が広がったり、インターネット上でつながりをつくれたりとか。自分自身が環境の主体になれるような状態が一般的になってきたのかな?なんて、特にヨーロッパでは感じます。引力のセンサーを自分で選べるようになった、という感じですかね。

だからこそ、自分が精神的に自立していないと生きづらい世の中になって来たのかも。自分を見失えば、引力センサーはあちこちに振りまかれ、どこでもかしこでも反応し、更に自分を見失うというカルマに陥ってしまうような。

でも引力センサーを一方に絞りすぎることもいけないとも思っていて、自分が変化することを許容しなければ、成長はないのかな何て思うので、時には自分がやってきたことと違う方向へ引力センサーをわざと使ったりもして。そこら辺は精神的自立をもととしたバランスが必要だと思います。

そんな感じで、今まで、人と人の間に引力があるのか?という仮定で始めたのに、あること前提みたいな感じで話してしまいました。ちなみに引力とは「様々な物体の間で、互いに引き合う力」を示すそうです。人間は物体なのか?というところでまた問いが出そうですが、今回は置いておきます。

物体を人間という言葉に転換すると、なんとなくいけそうな気がしますよね。でもここの「互い」という部分に注目すると、人間の場合、互いでは無く一方的になることってありますよね。てことは、先ほど説明した事柄の中で、両方が相手側を意識しない限り、引力とは呼べないのかも知れません。でも、目の前にひとがいるだけで取りあえず意識はしますよね。じゃあ、すべては引力なの??

そこで考えるのは、「引力センサーを働かせる時間」がキーポイントなのかなと。人って惹きつけられたり、気になればなるほど見てしまったりしませんか。見たくないものには、見た瞬間目をそらしますよね。引力センサーをシャットアウトするように。

つまり、引力センサーを働かせれば働かせるほど、引力というのが強くなっていくのでは無いでしょうか。そして、この引力センサーというのは、意識という言葉で置き換えられることができそうです。人と人の間に引力が存在するかという仮定に対して、個人の意識が他者との関係の中でお互いに一致したときに生まれるかも知れないといった感じでしょうか。


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