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どうして学校でノートの書き方を指定されるの?

学校教育ってなにかが得意じゃなくて、僕は教職課程を3年やって辞めてしまった。理由はいろいろあるんだけども。。

今回は、ノートの話。小学生、中学生、高校、塾とどこでもノートの書き方って指定されてたなーって思い出して。しまいには、東大生のノートなんてものも本屋で売り出されてたり。点数をとるためがビジネスになっちゃうんだからね〜。

教職の授業で、ノートの取り方なんてのを指定するように習うこともあった。模擬授業で穴埋めプリントなんかを作ったりもした。正直、僕はやりたくなかった。なぜなら、僕自身がそうやって型にはめられたプリント、ないし答えが用意されたやり方で習えたと思った経験が少ないからだ。

僕はノートが一般的には汚いらしい。塾ではよく注意されていた。大学生になったいまでも、多分みんなには汚いといわれるだろう。でも、今は大学生、文句を言われることなんてないのだ!ハッハッハッ🔈

で、そこで思うことがあるのは、ノートが汚い方がいろいろ身についてる気がするんだよねー。てか、その一般的に汚いの観点は、僕にとっては意外にわかりやすくて問題ない。ノートが汚いと頭の中もごちゃごちゃとか言われた気がするけど、僕にとって先生のやり方にはめられる方がごちゃごちゃになるんだよね。

だって自分の好きなように書けないんだもん。内容を理解して、先生の意図を理解して、先生の言う通りに書いて、ってやってるうちに内容忘れちゃう。なんか気づいたら、授業の目的はノートを綺麗に書くことになっちゃうんだよね。それって、書道の授業とかでよくない?、で、しまいには、テストのためにノート丸暗記。もはや勉強は先生の管理下にあるテストのためになってしまうのだ。

綺麗なノートを取ることは、テストでいい点をとるため。でもそのノートでもっと理解出来ないなら、テストのための勉強にかかる時間が増える。意味がなくないかなぁーって。まぁ、僕はそもそもテスト必要あるのかな?って思ってる人間だから、正直そこはどうねもいい。

問題は多様性の否定。さらに、正義感の押し付け。そこが1番よくわからない。確かに、ノートの書き方がわからない人に、アイデアを見せることは必要かもしれない。でもそれを押し付けるのってどうなのかな?と思う。学校の先生の仕事って、いろんなやり方を見せてあげて、それらを自分で選べたりとか、新しいのを創造できる基礎を作るサポートなんじゃない。今の学校一般では、先生のご都合主義が行きすぎてないかななんて思っちゃう。それは結局、生徒のためなのかって。

そんなこんなで僕は型にはめたノートの取り方を強制するのは良くないと思ってる無力で小さな人間です。


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