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元素概念の進化(2)

ソクラテス以前の自然哲学の話である。

四元素の中で最も元素らしくないものが空気である。なぜなら人間は五感の中で視覚が最も発達しているが(夜空遥かに星すら見ることができるが、星に触れることはできないし、星の匂いを嗅ぐこともできない)、空気はその視覚の対象にすらならないからである。水や土や火は視覚対象であるのに対して、空気はそうではなくて、しかし何らかの意味で感覚の対象ではあるので(冷たい空気)、その意味で最も非物質的なる元素なのである。元素は物質を構成するが、最も元素らしくない空気は最も物質らしくないのである。

ここから、空気は具体的性格をもつ物質と具体的性格をもたない非物質との中間に位置し、両者を仲介する最適任者だとわかる。だから、元素説史の中で突如あらぬ方向へと飛んだアナクシマンドロスを連れ戻すのに(なぜって、彼は突如非物質的な無限者を元素として唱えたから)、アナクシメネスの空気は最適だったのである。ト・アペイロンの性格があまりにも要領を得ないのは、あまりに抽象界への飛躍が時期尚早であり、理論的準備が追い付かなかったのである。

元素説史では、元素は1)知覚可能な物質から、2)知覚不可能な物質を経て、3)知覚不可能な非物質に至る。1)は四元素であり、2)はアトムであり、3)はイデアである。これが具体的思考から抽象的思考への精神の進化である。といっても直線的に進化したのではない。アナクシマンドロスは元素説の祖たるタレスの直弟子にして唐突に非物質界へと飛翔してト・アペイロン説を唱えたのであり、それがあんまり不自然だったので、弟子のアナクシメネスが「まあまあ」と宥めながら(?)、元素を抽象的非物質的ト・アペイロンから具体的空気へと引きずりおろすはめになったのである。それ以降、当面の間は元素は物質界におり、安定していたが、アナクサゴラスになると、元素の数を四つから無限個に増やし、その大きさを無限小にし、その種類を無限にし、これを「種子」と呼んだ。その元素観は少しばかり非物質的になっている。

ある意味において、アナクシマンドロスの後継者はアナクサゴラスである。アナクシマンドロスの場合は元素は単に「無限なる者」であったが、アナクサゴラスは無限なる数・無限なる小ささ・無限なる種類としており、アナクサゴラスの無規定的無限概念を限定しては明確にしているからである。つまり、単に「無限なる者」とするだけでは今一つピンと来ないが、「無限なる数の無限に小さい無限の種類の種子」とすれば、無限の意味が限定されて明確になるのであり、その意味でアナクシマンドロスの無限概念がよりいっそう明瞭となっており、受け継がれて発展していると言えるからである。

アナクサゴラスは元素である種子について、「…湿ったものや乾いたもの、温かいものや冷いもの、明るいものや暗いもの、…お互に少しも似ていない数の無限な種子の集合」(『アリストテレス自然学の注釈』シンプリキウス)といい、また「凡てのものは一緒にあったが、それらは数においても小ささにおいての無限である」(『アリストテレス自然学の注釈』シンプリキウス)という。これらは種子の無限の数・小ささ・種類を述べているものと私は考える。そしてアナクサゴラスの種子は1)知覚可能な物質であると同時に2)知覚不可能な物質でもある。なぜなら、「凡てのものは凡てのもののうちにある」「凡てのものが凡てのものの部分を含んでいる」(『アリストテレス自然学の注釈』シンプリキウス)からである。どういうことであろうか。

仮に人間の肉体が肉と毛から成るとしよう。ところで、アナクサゴラスは同一律の信奉者なので(『ソクラテス以前の哲学者』廣川洋一)、A=Aなのだから、肉は肉であって肉以外の物ではあり得ないと考える。だから水や土が何らかの手順を踏んで肉になることはあり得ない。では、どう考えるのか。肉も毛もすべて小さい種子から成るが、この種子の各々には肉も毛もすべて含まれているのであり、それが人体のある一部で肉となり、あるいは毛となって現れるのであり、それというのもあるところでは肉の要素が最も大きくて毛の要素は目には見えないほど小さいからであり、あるいは人体の別の一部では毛となって現れるのであるが、それというのもそこでは毛の要素が最も大きくて肉の要素は目には見えないほど小さいからである。つまり、肉として現れたところでは、肉は1)知覚可能な物質であるのだが、毛は2)知覚不可能な物質となっているのである。逆に、毛として現れたところでは肉は2)知覚不可能な物質であり、毛が1)知覚可能な物質となっているのである。だから、アナクサゴラスの種子には1)知覚可能な物質の性質もあれば、2)知覚不可能な物質の性質もあるのである。その意味で、1)から2)へと人間の精神が進化するそのちょうど中間に位置するのである。

後にアトム論者のデモクリトスはアトムを「その数が無限であり、そしてその塊が小さいために眼に見えないもの」(『生成消滅論』アリストテレス)と定義する。種子の諸性質は目に見えたり見えなかったりするが、アトムは完全に目には見えないものとなっている(また種類の無限については、デモクリトスは触れていないようである)。だから、四元素説はアナクサゴラスの種子説を経由してデモクリトスのアトム説へと到る、と言えるのである。

要約すれば以下の通りである。元素説史において、元素は1)知覚可能な物質から2)知覚不可能な物質となり、最終的には3)知覚不可能な非物質となって、もはや元素ではなくなってしまう。元素は自らを抽象化して自らの存在を否定していくのである。そして1)の論者がタレス、アナクシメネス、クセノパネス、ヘラクレイトス、エンペドクレスであり、2)に該当する論者がデモクリトスである。アナクサゴラスはその種子の特異性から1)と2)の中間に位置することになる。そしてアナクシマンドロスは3)に該当する論者ではあるが、おそらくは非物質的でありながらも飽くまで元素たる資格を要求しており、その概念は時期尚早であり不明瞭であったのである。そしてプラトンのイデアは3)に該当するのである。

さて、次回はプラトンのイデアとなる。

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