かぞく

 幼い頃から、お母さんとわたしはひとつだった。お母さんはわたしのことをなにもかも全部わかっていて、わたしはお母さんの延長線上にあった。お母さんのよろこぶことも、お母さんの嫌がることも、なにも言われなくてもわかった。
 お母さんは湯葉が好きで、わたしも湯葉を好きになった。お母さんは牛肉が嫌いで、わたしもあまり食べなくなった。お母さんの勧めでバレエとピアノを習い、お母さんが眉を顰めないよう、くもんにも休まず通った。お母さんはわたしをあまり褒めなかったが、それでもよかった。お母さんがよろこんでいるということは、わたしにだけはわかった。

「明日のランドセル、準備したの?」
「うん、もうできてるよ」
 そう、と言って、お母さんはため息をついた。お母さんにとっては「できている」ということが当たり前で、そこからひとつひとつ確認して、先生が赤ペンでマルバツをつけるみたいに減点していくのだった。
「じゃあお風呂入っちゃいなさい、お父さんが帰ってくる前に」
 はーい、と返事をして、お風呂場に向かう。
 入浴は、一日のうちでいちばん好きな時間だった。湯船の中で手のひらを使って泡をつくったり、お風呂の蓋と水面との間で曇った空気を吸ったりするのが好きだった。

 お風呂からあがると、お父さんが帰ってきていて、背中をまるめて夕飯を食べていた。
「今日は学校どうだった?」
「算数のテストだったんだよね? 見せて」
 わたしの代わりにお母さんが答えて、わたしはランドセルの中にある連絡袋から、算数のテスト用紙を取り出した。
「九十点? すごいな、」
 ちょっと、とお母さんが窘めるようにかぶせて言う。
「こんな簡単なテストで九十点なんて……すごくないからね。これ、見直しちゃんとしたの? してないよね? くもんでもうやったところでしょ、なんのためにお金払ってくもん行かせてると思ってるの?」
 こういうとき、お父さんはなにも言わない。黙ったままきんぴらごぼうを一本ずつ口に運んでいる。
「……とにかく、もう九時なんだし、明日はピアノもあるんだからそれもちゃんと準備してから寝なさいよ」
 はい、とわたしは言う。お母さんが怒っているときは、その怒りの後ろにある悲しみがなんとなくわかって、わたしまで悲しくなる。わたしが悲しませてしまった、と思う。

 部屋のベッドに寝転がると、足元の壁に貼られた蓄光のシールが淡く光っているところがちょうど見える。ベッドの枠にも同じ星型のシールが貼ってあって、光っているかどうかは見えないけれど、指で触るとシールのかたちがわかる。目を閉じたままそれをなぞっているうちに、眠気が押し寄せてくる。指先に血液が溜まっていくのを感じながら、ゆっくりと眠りに落ちる。

「今日、放課後プリ撮りに行かない?」
 授業中にミサが寄越した手紙には、ピンク色の小さな丸文字でそう記してあった。風が強く吹いて、クリーム色のカーテンが大きくふくらむ。先生が数学の問題を黒板に書き写している。
「今日はバレエあるからごめん」
 泣き顔のイラストを添えて、ミサから貰った手紙を真似てハート型に折りたたんで返した。ミサはわたしの手紙を一瞥して、「サボりなよ」と口のかたちだけで伝えてきた。
「萩原(はぎわら)さん、この問題の答えわかる?」
 先生の声がわたしたちの間の空気を切り裂く。ミサは「わかりませーん」と悪びれもせずにこたえて、笑いながらわたしの方をちらっと見た。まだ怒ったりはしていないようで、わたしは少しだけ安心した。
「わからないなら、ちゃんと聞きなさい」
「はーい」
 脚をだらしなく投げ出したままで、ミサはへらへらと笑った。先生はそれ以上なにも言わずに、授業を進行する。

「ねえ、サボっちゃいなよ」
「でも……」
「一回くらいバレないって、体調悪いって連絡したら」
 うん、と言った。断れば、ミサはきっと不機嫌になってしまう。わたしがバレエに行ったあとで、教室のロッカーに腰かけて、クラスメイトにわたしの愚痴を言うシーンがはっきりと見えた。
「うちの携帯使って電話していいよ」
「携帯、持ってきてるの?」
「当たり前でしょ」
 ほんといいこだよね、とミサは笑って、褒められているわけではないのだろうということくらいはわかったけれど、わたしも一緒になって笑った。
バレエの先生に電話をすると、心配そうな声色で「お大事にね」と言われて、ちくちくとした罪悪感が喉のあたりまでのぼってきた。
「うまくいった?」
「うん、ありがとう」
 携帯をミサに返すと、彼女はそれを鞄の底に隠すように仕舞った。

「盛れたねー、これとか」
 別人すぎ、と言ってミサは笑った。
「けど、これどうしよう」
「え? 財布とかに入れておけば?」
 手慣れたようすでミサがハサミでプリクラを二つに切り分けてくれる。小さいハサミを器用に扱う、ツヤツヤに磨かれた長い爪を見る。わたしの不格好に短く丸い爪とは正反対で、美しい爪。
「お母さんが見たらバレちゃうから」
 今日のこと。と言うと、ミサは目を丸くした。
「財布の中とか見られなくない?」
「見られるよ、鞄とかお財布とか。お母さんは内緒で見てるつもりだけど」
「へえ……なんていうか、過保護? だよね。前もなんかそういうのなかったっけ」
 そうだっけ、とわたしは言ったけれど、ミサの言うこともなんとなくわかった。
「だってうちらもう中学生だよ? プライバシーだよ、プライバシー」
 そう言いながら、わたしでも知っているようなブランドの小さい財布にプリクラを仕舞う。
「プライバシーなんて……おおげさだよ」
「おおげさじゃないよ、まだお腹の中にいると思ってるんじゃないの」
 ミサは自由だからだよ、と思うけれど、「だよね」と言って口角を持ち上げた。ミサの機嫌を損ねないようにと思っての返事だったけれど、それによってお母さんを決定的に裏切ってしまったような気がして、胸の奥が重たくなった。

「ただいま」
「なんで仮病なんてつかうの」
 お母さんは爪で指の腹をカリカリと擦っている。イライラしている時のくせだった。
「え」
「先生から大丈夫ですかって、連絡貰ったよ。嘘ついてどこ行ってたの? お月謝だって安くないんだし、もう辞めたいなら辞めれば?」
 じゃあ辞める、とは到底言えなかった。バレエはもう長く続けていたけれど、わたしの意思で通っているという感覚はあまりなくて、でも辞めると言えばお母さんが失望するということは簡単に想像できた。
「お母さんがどんな思いで……わからないの?」
 わからなかった。あのころはお母さんのよろこぶこともお母さんの嫌がることも、なにも言われなくてもわかったのに。今は、お母さんがなにを考えているのか、ぜんぜんわからなかった。
 お母さんはしばらくわたしの答えを待つかのような沈黙をもったあと、長い時間をかけて息を吐いた。それは嫌味を含んだ溜め息ではなく、たぶん、自分の傷をゆっくりと観察するような溜め息だった。わたしには、もはやお母さんの苦しみはわからなかった。
 お母さんの延長線上にあったはずのわたしは、いとも簡単に分離してしまった。ロケットが、発射したあとでいくつかのパーツを切り離すように。元から別々だったのかもしれない。だって痛みすらない。そのことを、悲しいとも思わない。
「わからないよ。……だって、別々だから」
 そう思ったけれど、言えなかった。
 わたしにとってお母さんが絶対的な存在であるのと同時に、お母さんにとってのわたしが決して切り離すことのできない存在なのだということはよくわかっていた。
 かぞくって不思議だ。血縁という、目で見ることもできない、本当にあるのかも分からないようなつながりひとつで、肉体どうしがくっついているかのような錯覚さえおぼえてしまう。あるいはそれは錯覚ではないのかもしれない、とさえ。
 わたしの感情を読み取ったのか、それともなにか別の要因があったのか、お母さんはほんの少しだけ目を見開いた。よくよく見ていなければわからないくらいに。そしてしずかに俯いて、二回まばたきをした。
 わたしはそのとき初めて、彼女の襟ぐりからのぞく胸のあたりが、痩せて骨の浮いているのに気がつく。まっすぐ見ていられなくて目を逸らすと、カーテンの隙間から差し込んだ西日に照らされた埃が、キラキラと舞っているのが見える。不意に、わたしの部屋に貼ってある蓄光のシールが、まぶたの裏で瞬く。それが熱をもつ。

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