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噂のあいちトリエンナーレに行ってきた

文化庁からの補助金が不交付となった、あいちトリエンナーレに行ってきた。この話題は、賛否あり、アーティスト自身や表現に携わる人たちは、この決定に対して「検閲的だ」と見て反対している。

一方、賛成する人は、「税金なのでみんなが不快にならず道徳的で勉強になる展示であれ」「アートは自分の金でやれ」といった(私が要約しすぎてるので乱暴なものいいになったかも。すんません)見方があるようだ。

私は、一度交付を決定したわけだし、そもそも問題になった「表現の不自由展」はすでに閉鎖しているし、他の参加アーティストへの敬意を払う意味でも、払わないのはあり得ないでしょう、と思っている。

何より、私がとても悲しいのは、会期中にもかかわらず、「見られない作品が出てしまった」というこの一点につきる。他の人も同じ気持ちじゃないだろうか。

恫喝の電話や、それに対応して展示の閉鎖を決めたことで、別のアーティストが辞退を表明してるなか、さらに補助金不交付のニュース。

「もう、行くまでに展示品がなくなってるかも」

とすら思って、怯えながら今日を迎えた。

一足先にトリエンナーレを見た美大卒の友人とランチをした。名古屋に住んでいるので、一連の騒動などどう思ってるのか聞きたかった。

メキシコの作家でフェミニストとしても有名なモニカ・メイヤーさんの展示内容が変わってしまったこと、「表現の不自由展その後」について話をした。

「見ることで、いいとか悪いとかを判断することはできるし、それぞれが思えばいいと思う。

でも、話し合う場すら奪われたから、残念だよね。天皇陛下の写真を燃やしてる映像を作ったって話題になった大浦信行さんの制作意図は、燃やすことを目的にしているわけじゃない"らしい"し。でも、見てないから"らしい"としか言えないじゃん?」

と、彼女は言った。

私たちは、たった数人で話しているだけのこの場所ですら、とても慎重に言葉を選び、事実に則してるのがどうか? 自分の判断や感情は正しいのか? と思いながら話している。

こうして慎重になった人の言葉は、慎重になるだけ発言を控えるから、世の中に出て行かない。でも、慎重でなく感情で動いていく人たちの言葉はダイナミックだし、迷いがなくて断定的だから、広まっていく。

「炎上」って、そういうものだし、世の中もそういう声の大きな人の声がルールを作ったり、主張が通るようになっている。

ただ、本当に不思議なのは、8/1に始まって8/2に炎上して8/3に閉鎖されたから、見た人はほとんどいないのに閉鎖されたことだ。

「この作品は見たら不快だ」と勝手に決めつけられた。

コレ、どうなんだろう? 「ガソリン持って展示会場に行くぞ」といった内容のファックスや抗議があったので、危険なのはわかるけれども、「不快かどうか」は、見た人しか判断できない。

アートは、賛否あってそれによって話し合うキッカケになるものなんじゃないの?

私にとってアートは、「これまでに見たことのない視点を提示してくれるもの」「価値観の違いに向き合わせてくれるもの」だ。

不快でも理由があって作ったものの背景や理由を理解できるように努力したいと思う。でも、それは無駄に親切な配慮によって、関わらせてももらえなかった。

いろんな背景や歴史的な文脈があって、そこから決められた「閉鎖」だ。

でも、作品の制作背景や文脈は、全部無視されてセンセーショナルな部分だけ切り取られて、そのまんま。

多くの人は、

"あいちトリエンナーレ=やばい作家が、反日で慰安婦像置いたり、天皇陛下の写真燃やしたやつ"

と、誤解したまんま、一時的に話題になって、トリエンナーレが終われば(というか、すでにもう"今さら感"の空気すらある)忘れ去る。

イジメの構造にまったく似ている。イジメた人間は、イジメたことをきれいさっぱり忘れてる。下手したら正当化した思い出としてしまわれており、イジメを受けた人間との事実関係にギャップがある。

毒親をもつ娘と母親の構図も同じ。モラハラな人とDVする人も、同じ。

とにかく、この手の方々は、背景も文脈も全無視して現在、いま、ココで起きたことに反応する以外に取れるリアクションがないのだ、と思って生きている感じがする。

「不快だ」と思う人がいたとしても、文脈を理解しようと向き合うのは、そんなにいけないことなのだろうか?

https://news.yahoo.co.jp/byline/shinodahiroyuki/20190816-00138640/

この記事は、炎上のきっかけになった動画を制作した大浦さんに直接インタビューしている。そして、作品の意図と制作背景なども詳しく書いてある。

こういう記事は、ぜんぜんバズらない。

私も今日、美大の友だちとの話題で出て来なければ調べようと思わなかったくらい、「すでに知っていること」として処理していた。

知らなかったのに、なんかもう「あぁ、炎上したやつね」って、思ってた。この思い込みに怖くなった。わざわざ名古屋まできて、トリエンナーレ2日かけて見ようとしてるのにもかかわらず、誤解してるっていう(私の不勉強のせいだけども)。

今日は、四間道の方しか見てないけれど、すごくよかった。津田道子さんの「あなたはその後彼らに会いに向こうに行っていたでしょう」の作品は、江戸時代の豪商が住んでいた伊藤家住宅で行われた映像インスタレーション。

視覚の錯覚を利用して、空間だけでなく時間軸も曖昧になって、不思議な感覚になった。

他にも、おもしろかったのが、葛字路さん(グゥ ユルー)。中国の作家さんです。ご自身のお名前に「路」とあることから、道の名称のように見えます。そこで、彼は自分の名前の交通標識を、名もない道に設置したらしいんです。

そしたら数年間、そのままだったうえに中国のGPSの地図に載ってしまったうえに、宅配便なども、作家名の「葛字路」の入った住所で届けられるようになったそうです。

実は個人名でした、ってバラしたら大ニュースになって大騒ぎになりました。

って顛末をまとめた作品です。発想のスケールが大きすぎて、あー本当、私は狭い範囲でしかものを見てないなって思いました。自分の名前を標識にするなんて、壮大なイタズラじゃん。

他にもあったし、書きたいけど、また明日以降で!

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