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言伝:ベルリンへ

ソウルに書いたラブレターを今でもたまに読み返しては、ソウルに思いを馳せています。ソウルでの瞬間は、真心で色がついていたけれど、ベルリンではどうやら捻くれてしまうようです。家出少女が母になんと口をきけばいいのかわからないように、ベルリンになんと話しかければいいのかわかりません。ベルリンに真っ向から何かを伝える気概もないし、顔をみるだけで気まずい思いをするでしょう。そんなことをグダグダ書きましたが、ベルリンで過ごした記録くらい残そうと思います。家出少女に実家があるように、私もベルリンで育ちました。その記録が、人伝いにいつかベルリンの耳に入るならば、そんな悪い話ではないですから。

家出少女とは、ちょうどいいメタファーです。わがままなことを言えば、ベルリンにネグレクトされているような気さえしていたからです。ベルリンに降り立った最初の3ヶ月、彼はろくに日光を浴びさせてくれませんでした。夕方四時に陽が沈む毎日に、私は辟易としていました。子に愛情を与えない親のネグレクトそのものです。そのせいか、私はよく旅に出ました。最初はミュンヘン。7時間ほど列車に揺られ、到着直後こそ晴れていたものの、同じドイツ国内では気候の変化はあまりみられませんでした。次にミラン、シプラスと日光により長く当たれる場所を旅しました。友人とのグループチャットは"Sunshine Cravers(日光を求める者たち)"。ベルリン生活最初の3ヶ月半はベルリンを飛び出すことでした。ベルリンに長く居ると、自分が内側から壊れる気がしていたからです。家に居ても立ってもいられない思春期の家出少女そのものですね。全ての都市を愛せない私にはまだ母性が欠けているのかもしれません。

ベルリンの冬は嫌いです。灰色の空をみていると心まで灰色になります。灰色の凍える天気の下でいい気分になれと言われても、できないものはできないのです。ベルリンの春は好きです。夏も好きです。彼はこの暖かい春夏を出し渋り過ぎるけれど。ベルリンの春は短いです。日の入りが午後四時だと思っていたら、いつの間にか日の入りが午後8時半になっています。春:夏=1:9です。ベルリンにはろくに四季がありません。ゲロ甘か毒不機嫌の二つしか気分がない親のようです。こうやって毒されていくのでしょうか。

ベルリンの風景は質素に華麗です。ギラギラし過ぎない輝きを美徳としているのでしょうか。そこら中に散りばめられたグラフィティーと、あくまで機能的な住宅。ベルリンという都市は、同時に、調和とか一体感とかをなんら気にしていないように感じます。街中にあるグラフィティーはアーティストたちの自己表現ですが、アートを適当に集めてもこうも一体感がでないものかと少し驚きます。

そういえば、ベルリンのアジア文化は少し面白いです。韓流が世界中で流行っていることもあって、今やヨーロッパ在住の韓国人男性は選り取り見取りです。皆、東のエクゾチックなルックに惹かれるそうです。まぁ、大胆で大きな白人の人型ばかり見ていたら、小柄でしゅっとした人型に惹かれるのもわからなくはありません。アジア系男子は一部からエキゾチシズムとして崇められている一方で、アジア系女子はそうではないのかもしれません。ジロジロと舐めるように見られたり、「このアジア人の女の子たち、過小評価されてるよね」と聞こえる声量で言われたり、近すぎる距離で投げキッスをされたりしました。私たちのことを偶像か何かだと思っているのでしょうか。人間、一つの場所に長く留まり過ぎると、身の丈以上の特権があると思い込み始めてしまうようです。

ベルリンの人は、すごく生々しいようにも感じます。公園で筋肉を強調しながら見事なダンスパフォーマンスを行う彼らも、真夜中セックスクラブに列をなす老若男女も、日曜日の真昼間に森でゲリラパーティを行う働き盛りの人々も、とても人間らしいです。森に住む民族を想起させます。カラフルな頭髪やサステイナブルなビジネスに制度:心が自然に近しいのでしょう。ベルリンの人々がオフィスで9時5時、働いているのが不思議でたまりません。彼らはバーで何の話をするのでしょうか。

ベルリンは、もしかしたら実はいいやつの悪役なのかも知れません。ソウルを上手く忘れられずにいた私と呼応するような曇り空で、ゆっくりとノマド生活を昇華させてくれました。七都市全てを同じように愛する必要はないでしょう。七都市全てを好きになる必要もないのでしょう。ただ、もう少しベルリンの短所も好きだと言えるように母性を磨きたいです。

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