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台湾ホラー映画『紅い服の少女』の話(ネタバレ有感想・考察というかもう愛)

東京での公開が今月27日で終了となった映画『紅い服の少女』。
台湾ホラー映画の火付け役と言われるこの作品をサブスクでなく映画館で観ることが出来たのは、映画・ホラー・台湾文化・そしてキョンシーからポンティアナまで個性豊かなアジアンホラーモンスターを愛する者として本当に嬉しかった。

『第一章 神隠し』と『第二章 真実』からなり、そして正統な前日譚となる『人面魚』を含めると三部構成とも言える“紅い服の少女”ワールド。
世界観は勿論、全てに共通する質感や設定が私はかなり好みなのだが、Netflix等で観ているとどうやらこれは“紅い服の少女”ワールドだけでなく後続の台湾ホラーにも広く見られる特色のようでもある。

今回はそんな、西洋や日本のホラーとは一味違う台湾ホラーと、その起源とも言える名作『紅い服の少女』の「第一章 神隠し」と「第二章 真実」、更にこの二作の後に製作された『人面魚』についても少し触れながら書いていこうと思う。
(三作の簡単なあらすじを書いた後、警告文を挟んでネタバレ有の感想となります)

■『紅い服の少女 第一章 神隠し』

2015年。
青年ジーウェイは、年老いた祖母と二人暮らし。
ラジオDJのイージュンという彼女がいるのだが、五年の交際を経ても尚イージュンには結婚の意志がない様子なのが悩みの種だ。

ある日、祖母の友人が行方不明になる。ややあってその行方不明者が発見されると、今度はジーウェイの祖母が失踪してしまった。
ジーウェイが入手した祖母の友人のカメラには動画が残っており、登山を楽しむ祖母の友人達の背後に、紅い服を着た少女が映り込んでいた。

祖母の戻らぬ中、身の回りに起こる怪異を不審に思い始めるジーウェイだったが……。

■『紅い服の少女 第二章 真実』

2017年。
家庭内暴力被害者を守る福祉職員をしているシューフェンは「あの家の子供を見かけなくなった」という通報を受けてリン・メイホアという母親の元を訪れ、部屋に閉じ込められていた幼い女の子を発見し保護する。
そんな中、仕事で忙しく疎遠になっていたシューフェンの娘・高校生のヤーティンに体調不良が続き、妊娠が発覚。
中絶の手続きをとるシューフェンだったが、娘はそれに反発。
母娘の溝が深まる中、突如としてヤーティンが行方不明になってしまう。

シューフェンは、娘の彼氏だという青年・ジュンカイを訪ねてみると、彼は廟で虎の神「虎爺(フーイエ)」を降ろし儀式を行うシャーマン“童乩(タンキー)”だった。
防犯カメラに映るヤーティンの傍らには、謎の紅い服の少女が……シューフェンとジュンカイは「虎爺」の力を借りて、いなくなったヤーティンを探し始める。

■『人面魚』

2007年。
“人面の魚には霊が宿る”ーーそんな伝説の残るランタン地方。
男が山で釣りをし魚を食べていると、何者かに名前を呼ばれた。
後日その男は一家五人を殺すという凄惨な事件を起こす。

廟で「虎爺」を祀る男ジーチェンは妻に先立たれ、先輩道士である父とともに、幼い息子を守り暮らしていた。
ジーチェンの元に、警察の知り合いが
「虎爺に会いたがっている男」
を連れて来る。
彼は、己の家族五人を手にかけた殺人事件の容疑者だという……。

※以下、三作の内容・展開・ラストに触れる感想となります。ネタバレ注意!!

□台湾ホラーの持ち味「現代×怪異×方術」の礎

映画に登場する“紅い服の少女”は、台湾の、視聴者の動画を紹介するテレビ番組で実際に放送された怪奇映像をモチーフにしている。
登山する人々の後ろに、メンバーにはいなかった紅い服の少女が歩いている、というもので、この映像で少女の前を歩いていた人が後日、突然謎の死を遂げた……という。
この映像は台湾で様々な憶測を呼び、都市伝説となった。

つまり、映画『紅い服の少女』は実話をモチーフにした作品である。
実話から着想を得た台湾ホラー、というと、Netflixで公開され日本でも話題になった『呪詛』も同じだ。
こちらは、各々が神に憑依されたという家族が奇行を繰り返し死者まで出た、として世間を騒がせた怪事件をもとにしている。

科学万能の現代において尚、怪奇や神秘の存在が大真面目に議論され、受け止められる。ホラーやファンタジーの映画の世界に限った事ではなく、実際の台湾の人々の感性も同様だ。

日常の中に当たり前に神々や縁起かつぎ、魔除けが同居していて、これらの力がかなり身近なものとして暮らしの中に溶け込んでいる。
ひとたび科学で説明のつかない事件が起きれば恐怖と注目を集め、人ならざるものが原因だと考える人々も多いという。

『紅い服の少女』が「台湾ホラー」の潮流の源となる程に多くの人に受け入れられ楽しまれた理由であろう、後に続く台湾ホラーにも多く共通する特徴に、

・科学万能の現代に当たり前に幽霊や魔物が存在している
・そこに立ち向かうのは道士(神仏を祀り術を使う者)や童乩であり、方術(道教、仙道、風水等の古来より伝わる神秘科学や術)・呪術は当たり前に効果がある

という二点がある。
現代を舞台にしており、一般の人々は普段そこまで大真面目に幽霊や魔物を信じて暮らしてはいない・が、ひとたび怪異が起これば頼られるのは道士であり、怪異や呪術を目の当たりにした人々はその力をすんなり信じて受け入れる(し、実際に効果がある)。

私はこの台湾ホラーの個性がたまらなく好きだ。
初詣やお葬式が当たり前で、気学(九紫火星とかの占い)が根づいた日本だったとしても、たとえば『リング』の貞子が現れた時に解決に駆けつけたキャラクターが禰宜や僧侶だったり、『呪怨』の伽耶子が襲ってきた時に主人公が“おふだ”で伽耶子を退治できたり、『女優霊』が現れた理由が「スタッフと同じ暦の生まれ属性だったから」とかだったりしたら……多分、ほとんどの日本人が

「なーんだ、怖い映画と思ったのに、その設定はファンタジーかよ」

と感じると思う。
荒唐無稽感とでも言おうか、日常に神社仏閣占いが溶け込む“カジュアルな八百万の神と神仏習合”の国民・日本人ですら、感覚としては、神仏や呪術=ファンタジックなフィクション、と捉えてしまう感性がある。
これは日本人の宗教に対するおおらかさから来るものに他ならない。
西洋ホラーにおいて殺人事件や怪奇事件の原因が“悪魔”というオチが出ると、日本人には一気に怖さが軽減される……という原因もここにある。

日本人にとって、身近であろうと、神や魔物や呪術というものはフィクションの色が強く、ひとたびこの要素が絡めば“空想的・ファンタジック”なものとして「リアルより架空に寄せた」印象をもって消化されてしまう。
(だからこそここにお祓い祭りで真っ向から切り込んだ『来る』は凄みがあったし、白石晃司監督作品の霊能者はファンタジックに振り切ってて魅力的なおかしみやキャラクター性があるし、道士をも殺し動画を媒体に広がる異国の未知の呪いと悪意を描いた『呪詛』には多くの人が(身近な動画視聴という行為にかぶせられたことで)リアルで理不尽な恐怖を感じた)

台湾ホラーでは、神仏や魔物や呪術は“ファンタジックで楽しいフィクション要素”ではない。
大真面目に魔物と向き合い、大真面目に神仏や呪術が力を持つ。
これは大スペクタクルであり、廟で日常的に“見た事のある道士やその技術”がありありと活躍する「リアルさ」なのだろう。

□青暗い画面、垣間見える虫。台湾ホラーの“闇”の質感

『紅い服の少女』は大まかに分けて、人々の暮らす都市の家屋と、人々の立ち入らない廃墟を含む森とでストーリーが展開していく。

廃墟や森が薄暗いのは当たり前だが、この「陰鬱として、何かが潜んでいそう」な雰囲気が都市部や民家のシーンにまで漂い、物語全体を通して充満している。
まずこの不自然なまでの画面の暗さが一貫していて逆に美しい。

赤さを抑えた青暗い画面で映し出される山、廃墟、そして町や人々の全てが、既に魔神仔に捉えられ彼女が跋扈する空間なのだと、異界の空気が吹き込んでいるのだと……そんな感じの気味の悪さ、もっと観る側の体勢で言ってしまえば「気の抜けなさ」「油断の出来なさ」が途切れることがない。
そこに軽微なジャンプスケアの手数が多めでお化け屋敷的なはったりが効いている。

つまり、観客は
常に何か起こりそうな画面の前で、
うわっビックリした!→何だ効果音で驚いたけどただの◯◯(家電や家具の物音)か……
というジャブの連打にさらされるのであるが、そんなジャブの手数に慣れてきた頃、オバケ的な存在だとか虫の大群だとかの「モロ」なストレートがバンッと叩きつけられる。
この恐怖描写の繰り出し方は個人的にかなり好みだ。

私は本来「怖さとしては大したことのない音だけのジャンプスケア連発」は嫌いな方なんだけど、『紅い服の少女』のジャンプスケアに関しては不思議と殆ど嫌さを感じなかった。

更に、CGのオバケをハッキリ丸出しにしたり、じんわりとした陰鬱な雰囲気のホラー映画の中で突如CGクリーチャーのバトルシーンを描くのも、オバケ的な怖さではなく大量の虫によって嫌悪感を煽る描写も、ジャンプスケア連発と同じくらいそれぞれ好みの分かれるであろう要素だと思う。
これらも私は全く嫌だとか、安っぽいとは思わなかった。理由は「世界観に合っているから」に尽きるだろう。

ここがとにかく不思議というか、この映画の物凄い魅力だなと。
だってそもそも“実話(実録映像)”を元にしたというホラーに、CGのチープさ漂うオバケだとか、第二章ではトランスの果てに獣人と化した童乩までが出て来ているのに、
「せっかく実話モチーフなのにめちゃくちゃ現実離れな描写ばかりで、実話を元にしたっていうリアルさが無くなって台無しじゃん」
とはならない。これは結構凄いことだ。
「紅い服の少女は伝説の魔物なの?そしたら山には他にも魔物いてもおかしくないよね、こんな魔物いたらそりゃ虎獣人になって戦うしかないよね」
みたいに、現実離れした描写に対してどんどんいけ!いいぞ!となれる勢いがある。

この勢いというか、突っ走る・観る側の手を引いて突っ走らせる謎の説得力は、今や何作品も作られて話題を呼んでいる台湾ホラーにも脈々と受け継がれていると私は感じている。
これは紛れもなく「世界観の強さ」だ。

そして、やはり特筆すべきは“虫”。
オバケや呪い的な怖さではなく、生理的な気持ち悪さを煽る要素として、台湾ホラーではよく虫を見かける……気がするなあとは思っていた。

『杏林医院』ではラストを暗示するかのように、廃病院に形をとどめたまま転がる蛾の死骸がアップでちらりと映るシーンがあった。
『怪怪怪怪物!』では、怪物達について語られる箇所で、その出自に人為的な蟲が仄めかされる。
そして『呪詛』にはもう、呪いの象徴であるが如く映画の要所要所でイモムシが蠢く。
これら三作の“先輩”である本作にも虫が登場。

一つは伝承にもある魔神仔の得意技の幻覚や攻撃としておびただしい虫が。
ノリノリで美味しいご馳走を食べているつもりがそれは実は甲虫やミミズだったり、縄張りに入ってきた者を内側から攻撃し、肉体を食い破って溢れ出す虫の大群であったり。
もう一つは魔神仔そのものを象徴して描かれるメンガタスズメ。『羊たちの沈黙』のポスターで有名な、褐色の羽と、髑髏のような人面のような模様を持つ珍しい蛾である。
パンフレットによるとこの蛾は“紅翼鬼瞼天蛾”と呼ばれているらしく、その字ヅラからも分かるように作中では“紅い服の少女”の分身のような存在となっている。

ここで特筆すべきは、前述の三作も本作も、(気持ち悪さを狙った演出はあるものの)きちんとストーリー内容に絡めた形での虫という用いられ方だ。
B級ホラーのゴア表現で
「肉体破壊されたらとりあえず腸をピロピロ出しとけ♪」
みたいな、“気色悪さと派手さ狙い”の景気のいい表現があるが、その手のライトな「嫌がらせ飛び道具(※褒め言葉です)」とは、台湾映画の虫演出は違っている……と私は思う(虫苦手な人からしたら一緒に感じられるだろうけど)。

ストーリーの恐怖の流れに沿う意味を持った上で、虫の醜悪さが使われている。
これも台湾ホラーの特色と言っていいと思う。

(ちなみに魔神仔の虫による幻覚だけど、日本の狐もあれに匹敵するヤバい得意技があります。お食事中を避けて「狐の大饗(おおあえ)」で検索してみてね。)

□第一章から第二章へ……紐解かれる“魔神仔”

前置きが長くなってしまったが、ここからは映画のストーリーについて。

紅い服の少女の姿で現れる魔物・魔神仔は『第一章 神隠し』では主人公らの家族を連れ去る、完全な脅威・人とは相容れない恐るべき魔物として描ききられた。
“伝説の魔物・魔神仔は存在し、人に害をなすんだよ”
“森は恐ろしい所だよ”

というのが、第一章で魔神仔が登場人物と観客にもたらす印象であり存在感である。
森林伐採と絡められ、どこか精霊的な解釈がある事もしっかりと挟まれつつ。

ここまででも、現代社会に影響を与える土着の魔物……というモチーフのホラーとしては傑作だ。
(実際、テレビの映像が台湾の人々を騒がせ怖がらせて都市伝説となった事自体も“現代社会に影響を与える土着の魔物”という事例なのでそれをなぞっているかのようでとても良い)

しかし『第二章 真実』は、伝説の存在である恐ろしい森の魔物・魔神仔に、過去と出自を、つまり“人間性”を与えた。
それも「古の言い伝えにより現代に生まれた、人が生み出した、人だった」ものだ、というショックと意外性を伴って。

死んだ自分を尚も求めてくれたはずの母に、化け物だと嫌われ裏切られたという悲しみ。
そして、そんな「人ではないものにされた人の子」として怒り悲しむ魔神仔を取り巻く運命に巻き込まれた女性達は皆それぞれに、母として、子として、迷いや執着や悲しみを抱えている。

母である事を諦めきれなかった者。
母になれなかった者。
他人の母子に介入しつつも、母として己の子と向き合いきれないばかりか、暴力により望まない妊娠に傷ついた過去から、新たに母になろうとする我が子を許容できない者。

母の愛を実感出来ず、母に嫌われていると思いながら、我が子となる新しい命を守ろうとした者。

そんな中で、メイホアの娘である幼いヨンチンだけが、迷いもなく母を慕い、そして迷いも曇った執着もなく姉と対峙し、母の思いを伝え、心から愛する。

母の過ちにより生まれ、悲しみと怒りに迷える魔神仔を救ったのは、ヨンチンから伝えられた確かな母の愛だけではなかった。
最後には魔神仔のことを魔物として向き合った(向き合うしかなかった)母メイホアと違い、
「あなたは怪物じゃないよ」
と、魔神仔を人として・自身の姉としてーー母は魔神仔にしてしまった今も我が子として愛している、その証拠に自分はあなたと同じ名前を受け継いだ妹なのだとーー向き合った幼いヨンチンの優しさが、魔神仔を悲しみと怒りから解放する。

人の“名前”を呼び異界へ連れ去る「魔物」魔神仔が、かつての己の“名前”を呼ばれ「愛されていた、愛されている人間」リン・ヨンチンとしての己を取り戻す。
観ている側としても本当に美しいと思った結末だった。

『第一章』で「神隠し」を起こす恐ろしい魔物として描かれた魔神仔は、『第二章』で悲劇の少女だという「真実」が明かされ、そして“確かに愛されていた、愛されている子”としての「真実」を取り戻し皆の、そして我々の前から消えていった。

森を舞うメンガタスズメガ“紅翼鬼瞼天蛾”ーー彼らは魔神仔の仲間か、或いは化身かーーその無数の紅い翼は親子と新たに「親」となる青年を守り、他の魔物達を退け別れを告げるかのように、光を呼ぶ。
魔神仔の淀んだ悲しみ憎しみに暖かい救いをもたらしたヨンチンの優しさと同じように。

すべての霧が晴れた。

□受け継がれるもの

母のシューフェンに見守られながらヤーティンは母親になり、ジュンカイは父親になった。
生まれた子は男の子だろうか。女の子だろうか。
その子はいつか「虎爺」の加護を継ぐのだろうか、かつて“人面魚”騒動でのジュンカイがそうだったように。

前作の主人公だったイージュンも悲しみを乗り越え、優しい眼差しで母と姉を供養するヨンチンの母として二人歩み始めるようだ。
二人はヤーティンのもとに生まれた新しい命を祝福する。

ラスト、病院の窓から景色を見渡し、年老いた祖父にジュンカイが問う。
「何故、森にはたくさんの魔神仔達がいるのかなあ」

窓の外、彼への答えかのように、すぐそこに森の影が広がる。

森は常に人のすぐ側にあり、魔神仔達もまた、人の側にあるーー。
台湾の人々の営みを見つめ、そこから生まれ出ずるものを見守りまた内包して、台湾の森は鬱蒼と生い茂り、これまでも、そしてこれからも、人々とともにあるのだ……と。

私はこの最後の描写に、映画から森や魔神仔達への確かな敬意を感じた。
上手く言えないし、日本人の私にはきちんと理解できているかは分からないけれど。
森と魔神仔に対して、人智の及ばぬという畏怖だけではなく、台湾に住まう人間から大自然と隣人とに向ける、親しみのような崇拝のような……そんなしっとりとしたリスペクトを。

□あれこれ雑記

台湾の道士や童乩にはそれぞれ一人一人に信仰する神仏がいる。

ジュンカイの神は勿論「虎爺」。
黒虎将軍とも呼ばれる神聖な虎だ。
“爺”は神様につける敬称なので、日本語にすると“虎神様(とらがみさま)”みたいな感じ。魔除けや金運など様々なご利益のある虎として廟に祀られている(主祭神となるのは珍しいケースらしい)。

腕と首に呪文を刻んだ激強おばさん・メイホアの神はおそらく「五雷元帥」。
名前の如く道教の雷神であるが、信仰によっては“親不孝をはたらく者を罰する神”とも言われているっぽい。
メイホアがこの神を祀るのはこの理由から……なのか?それとも昔の死者蘇生術を知っていたり、それを実行し成功させる等を見ると、家系的に霊力を持っていて、五雷元帥を祀る道士のような生まれなのだろうか。これは是非監督さんに聞いてみたいところ。

先日観た『縄の呪い2』の道士の神は日本でも五月人形で有名な「鍾馗」(鍾馗も敬称をつけて“馗爺”と呼ばれる)。
『呪詛』の頭ぐちゃぐちゃおばさんのいた廟は周倉廟らしいので、あそこでドゥオドゥオを助けようとしてくれた道士のおじちゃんの神は「周倉(関羽の息子)」。

台湾映画には道士の登場シーンが多いので、道教とかアジアの神仏に興味のある人は、
「この道士の神は誰かな?」
と注目してみると面白いかも!

また、母達と娘達を描いた『紅い服の少女』の前日譚にあたる『人面魚』は、父達と息子達のストーリー。
受け継がれる虎爺の力について知りたい人や、台湾の森のまた別の伝説を知りたい人はぜひ!

こちらネタバレなしの紹介noteです。
よかったら読んでみてね。

最後になんだけど、私はこの『紅い服の少女』、一章→二章→『人面魚(サブスク)』→一章→二章、と二週しました。

最初の第一章は日本在住の台湾人の友達とスケジュールをあわせて初めて一緒に映画にお出かけしたので特別な思い出にもなり。
私は華語は殆ど聞き取れないし発音は全く出来ないのだけど、台湾映画により近くなるために華語を勉強しようかな。

『紅い服の少女』と『人面魚』は、いつの間にか私が多くの日本人と同じく無意識に「ファンタジック要素」にカテゴライズしてしまっていた魔物や呪術といったものに関して、
「ホラー映画のモチーフが伝説の妖怪でもしっかり怖いし面白いな」
「『幽幻道士』の時代だけじゃなく、現代社会が舞台でも、道士や方術の活躍を大真面目な描写にできるテイストっていいな」
と思わせてくれた。

怖く悲しく、でもどこか可愛らしい魔神仔ちゃん、そして虎爺パワーを降ろすカッコいい二人の童乩との出会いに感謝。
そして日本に面白い台湾映画を精力的に紹介して下さる台湾映画社さんにも絶大な敬意と感謝を。
謝謝。包含著愛。
(サブスクもいいけど、やはりスクリーンで観れるのはこの上なく幸せです)

私は『五行大義』を読んで、玄空飛星・三元風水を学んで古くからの天文地理を勉強しているので、いつか玄天上帝や九天玄女神が登場する台湾映画が出てきたら嬉しいな。

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