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モスクからはじまる思い出話

前回の往復書簡
『葉っぱっていいよね、』

うん、うん。葉っぱっていいよね。
わたし自身も、名前に葉が付く人。風にそよぐ葉っぱを見てるだけで、ざわりさらさら、心と頭の中を掃き清められる気持ちがする。陽光も、葉を通して届く木漏れ日の優しさが胸を打つ。落ち葉の一つ一つを思わず愛でたくなる。
この頃大好きだ!が、止まらない言葉もまた、葉のひとつ。たくさんの言葉が大樹の枝に笑うように揺れる様、を、思い描きながら、慈しみ深い日々を言葉に落とし込み連ねたい、と、思いを新たにしている。

今朝、家族が朝寝坊を楽しむ中、ひとり林檎の皮を剥きつつ、書簡のお返事のことを、考えていた。

まいちゃんとふたり、東京ジャーミイのモスクにいたのは、いつ頃のことだったか。荘厳で麗しい佇まいながら、あたたかな空気で迎えてくれたモスク。髪や肌を隠す布を借りて、それにくるまれながら、ふたりでしばらく、何をするでもなく、いた。信徒の祈りのようなものを目の端で捉え、風景のように愛でながら、お互いの神に委ねるしかない物事を、どうにか抱いていた。手放すこともできないし、しかし拘り続けるのは苦しいし、、で、何とかやんわり抱きとめていた。遠いトルコの暮らしの中にもあるであろう迷いや苦しみ、それを伴う祈り。遠いはずのそれらが不思議に親しいものに思われたひと時だった。若いころはよかったなぁなんて、うそぶくこともあるけれど、充分に若かったあの頃、人生の計り知れなさは、なかなかの困難だった。

半分に切った林檎には蜜がたっぷりと詰まっていて、娘たちが喜ぶだろうなぁ、と、口元がほころぶ。
湯気のたつ出来立てを、美味しいねえと言いながら頬張って、お腹と心を満たし合うこと。
外で繋ぐ手の小ささと頼もしい温かさ。
夜更かしで冷え切った足を包みこむ、姉妹の体温でしっとりぬくまったお布団。
日々に散らばる、誰かと生きている感触は、地に足がつくような確かさをもらたしていて、改めて今の暮らしを心地よく思う。



泉が湧くみたいな、心の大事件。
まいちゃんの出産までと、出産と。ただ見守るしか出来なかったから、その変化を、とてもとても嬉しく思う。

わたしたち夫婦も、長女を授かる前に、いくつかのことを乗り越える時間があった。それらを経て不意にお腹にやってきた長女をいま目の前に、まいちゃんと同じく、必然と運命を感じずにはいられないでいる。

長女を迎えるまで間の、ある一際の苦しみの中、似た苦しみを知るまいちゃんは、『今日まよちゃんを励ますために、あの経験があったのだと思う』ということを、真っ直ぐに伝え一緒に泣いてくれた。口から漏らして誰かに聞いてもらったところで、楽になりはしないような苦しみだったが、それでも堪らず、聞いてもらった。話すなら、まいちゃんしか居なかった。だから、あの時、どれほど救われたかわからない。今思い返しても、涙が出る(今ひとり喫茶店でひっそり泣いている)。あの時は、本当にありがとう。

まいちゃんの5年、その中で起こったわたしの二度の妊娠出産を、曇りなく瑞々しく喜んで祝福してくれたまいちゃん。

そんなまいちゃん、なのだ。泉は湧くべくして湧いたと思う。決して生易しくもない育児を前に、枯れることなく湧く泉。たぶんそれは母性と呼ばれるものではないか、そんな気がする。

産前のまいちゃんを姉妹を連れて見舞った5年前、案の定、と言うべきか、長女とやり合った。まいちゃんはあの日も、上手く向き合えないでいる私たちを『最後にちゃんと仲直りするところがいい』と優しく肯定してくれた。
あの日、街を彩る紅葉と共に、祈るような既に祝うような気配が、澄んだ空気に満ちていたことを思い出す。今朝、忙しなく細々とした家事に追われた挙句にゴミ出しを忘れ、ちょっとささくれていた気持ちが(それで朝ごはんを食べたのにモーニングをきめたった…!)、あの頃と同じように澄む空気がはらんだ祝福に溶けていく。喫茶店の中庭には、染まった葉を落とす時を気ままに待っているような木がそよいでいた。少し葉を減らしながらも、悠々と。


まいちゃん、はーしゃん、5回目のこの素敵な季節、共に喜んで迎えられることを幸せに思います。たくさんのありがとうを込めて、おめでとう。
そのうちに共に再訪したいな、東京ジャーミイ。

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