見出し画像

姉妹

前回の往復書簡
『すなる日記』

引き出しにしまわない『手紙』『日記』かぁ。そういうものがあったらわたしは真っ先に手を伸ばす性質だな。いい匂いといい予感。

公開型の日記をわたしが始めたのは、たぶんmixiの台頭の前夜というタイミングで、サークルの同期数人でホームページを作った時だったと思う。コンテンツをよく覚えてないけれど、ひとりひとりの日記、掲示板、で構成されていたような…。ブログとかも出来る前で、ホームページを作るのがにわかに流行っていたよね?わたしもHTMLを少しかじって、徹夜して自分個人のホームページを作ったりしてた。むずむずと恥ずかしい、を経て、可愛い思い出。

そこから、mixi、Facebook、Instagram、と、一通り。

紙に書く日記も手紙もてんでだめなのに(自分の字が好きではないのが大きな理由の一つと思っている)、PCや携帯、スマートフォンで書く公開型の日記が続いてきたのは、読みやすい活字になるから、だったのか、読み手の不安定さ、も手伝って、なのか。いまSNSは多岐にわたり、その全てを精力的に使ってるわけではないけれど、それぞれのカラーに合わせて、自分の表現が変わりゆくのが、ちょっと恥ずかしいけど面白い。多面的なわたし。

わたしが往復書簡、の提案を受けて、真っ先に思い出したのは、クウネルに掲載されていた、江國姉妹の往復書簡。わたしは読書家とは言えないので、手に取る作家がかなり限定的なのだけど、その一つが、江國香織。彼女の作品にしばしば登場する、姉妹と母、と言う世界観が、わたし(自身は姉弟)の憧れであったが、なるほど、彼女自身がそうなのだった。
今、創刊号を読み返してみても、やっぱり憧れる。性格は違うのに、小さな頃からの思い出を五感で共有共感し合う、親友ともまたひと味違う、姉と妹という関係。そしてその源みたいな『かーさん』。ふたりはかーさんにしばしば呆れ笑うけれど、ふたりの大部分はかーさんの影響を色濃く受けていて、ふたりともかーさんが大好きなのだ。

自分が親になり、親とのあれこれをなぞり思い返すとき、それを共有できる弟がいることが、最近とても頼もしい。のだが、やっぱりそれをするのが、姉と妹、というのは、独特の秘密めいた感じがいい。わたしにとって疎外感さえ甘やかなそれは、外からは見えぬ花園。叶わぬ憧れ。

しかし、わたしは思いがけず(なんとなく、自分の子どもも姉弟なのではと思っていたから)姉妹の母になった。あの、憧れの、姉妹というものの生態を間近で興味深く覗き見つつ(今日ふたりは、人生初のクリームソーダを前に、きゃいきゃいと高揚する、という、非常に姉妹っぽい時間を過ごしたところ)。あ、わたしが『かーさん』か、と、嬉しく思う。
母になっても、根は相変わらずで、ちっとも大人になれやしないわたし。不甲斐なさを、姉妹が、やれやれ、と、共有してうまい距離感で愛してくれたらホッとする。ただ、所謂大人、にはなれなくても、自分というものの立ち姿は、先を生きる人として、母として、見せてやりたい、と、かっこつけても、いるのだけど。

そういえば、まいちゃんも、姉妹だね。やはり、秘すれば花、なんだろうか。今度聞かせて欲しい。


この記事が参加している募集

育児日記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?