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同人誌「横須賀線・総武快速線」試し読み その5:線路は軍港・横須賀へ

はい!みなさんこんばんは、長沢めいです。

いま、冬コミに向けて「横須賀線・総武快速線」の同人誌を制作中ですが、今回のコミケでは会場での立ち読みを不可とさせて頂くことに致しました。そこで、事前に内容をある程度お見せしたい!と思いまして、冒頭部分を中心に何回かに分けてnoteで公開していきたいと思います。

今日は、横須賀線・総武快速線の歴史について概説したパートの5つ目、「線路は軍港・横須賀へ」をご紹介します!

(※文面は今後、調整する可能性がありますのでご了承ください)

なお、マガジンにまとめてますので、他の記事はこちら↓からご覧ください

線路は軍港・横須賀へ

1884年に鎮守府が置かれ、軍港として急速な発展を遂げた横須賀。しかし、山に囲まれた立地ゆえ、首都・東京との往来は「天候に左右される海上交通」もしくは「馬車も通ることのできない劣悪な山道」を経由するほかに手段がありませんでした。そこに持ち上がったのが横須賀鉄道線路、つまり横須賀線の建設計画でした。

■東海道線の予算を横取る

 横須賀への鉄道路線計画が具体化したのは、1886年に軍部から提出された「相州横須賀又ハ観音﨑近傍ヘ汽車鉄道ノ布設ヲ要スル件」という稟議がきっかけと言われています。ところで、この稟議の署名欄には、陸軍大臣・西郷従道と海軍大臣・大山巌、二人の名前が並んでいます。横須賀といえば海軍の拠点ですが、ここに陸軍が加わっているのは何故でしょうか。

 稟議書本文に目を通してみると、観音﨑に砲台が置かれているとの説明があり、加えて、「背面ニアル長井湾ノ如キハ敵兵上陸要衝ノ地ナルヲ以テ是亦陸軍ニ於テ最大樞要ノ地トス」という記載があります。当時の陸軍は「清国の海軍が東京湾に侵攻する」という想定で東京湾周辺に要塞の建築を進めており、観音﨑の砲台もその一環で建設されたものでした。ちょうど清国とは朝鮮半島を巡って対立が深まっており、横須賀や観音﨑への交通手段の確立は、国防上、緊急に解決すべき課題だったわけです。

 しかし、内閣の中からこの計画に対して異議を唱えた省庁がありました。大蔵省です。先述の通り、明治政府の財政は大変厳しかったのです。しかし軍部からの要請は強く、苦肉の策として、政府は当時建設中だった東海道線の予算を一時的に横須賀線へ流用して、建設に着手することになります。

■古刹の境内を横切る

 ところで、横須賀線の計画が議論されていた当時、この路線は閣内の文書では「戸塚駅ヨリ分岐シ横須賀ヘ至ルの鉄道線路」と表現されていました。
その後、藤沢から分岐する案なども検討されたようですが、結果的に、案の中でも直線に近く、費用面などで若干有利な現行ルートが選択されました。
 とはいえ、トンネルが8か所設けられ、北鎌倉では円覚寺の境内を横切るように線路が引かれるなど、無理を押す形での建設であったことが現在の車窓からも伺えます。
 このように横須賀線の建設には軍部の意向が強く働いていましたが、一方、終点の位置については観音﨑ではなく現在地で決着しました。当時は既に横須賀の市街地が出来上がっており、観音﨑までの線路を通すためには大がかりな土地買収を必要としたため、陸軍も観音崎までの建設は先送りとすることで許容したのです。
 それでもなお建設工事は予算不足に見舞われますが、公債の発行によって乗り切り、1888年には東海道線上に大船駅が開業、そして翌1889年6月には大船-横須賀間まで漕ぎつけます。
 なお、開業当初は大船-横須賀間の区間運転が中心でしたが、のちに東京までの直通運転が一般化しています。

■電化、そして電車化

 さて、世界に目を向けてみると、横須賀線が建設された時期は電車や電気機関車の実用化が進んだ時代でもありました。1881年にベルリンで世界初の路面電車が営業を開始し、日本でも1895年には京都で路面電車が開業し、さらに1904年には甲武鉄道(現・中央線)飯田町-中野間でも電車が走り始めるなど、私鉄では電化技術が広がり始めていました。

 しかし、国有鉄道においては1914年開業の京浜線(現・京浜東北線)が開業日に立往生したことなども影響し、電化は遅々として進みませんでした。大正に入って東海道線と横須賀線の電化計画が具体化し、1925年にようやく国府津以東の東海道線と横須賀線の全線が電化されました。

 一方、電化されてから電車の導入までは早く、1930年3月には他路線から集めた車両を用いて電車の運転が始まります。そして同年中には横須賀線用に設計された32系電車が新規投入されました。

 従来の電車は短距離路線を想定した設計でしたが、32系電車では高速走行に対応した振動対策や、乗車時間が1時間程度になる点を踏まえたボックスシートの採用などの改良が行われました。以降、鉄道省は関西地区へも電車を導入するようになり、電車の普及が進むことになります。

■皇室御用達?の路線に

 ところで、横須賀線の開業は先述した通り1889年6月ですが、それよりも早い3月に横須賀線をお召列車が走行した、という記録が残っています。横須賀で建造された通報艦・八重山の進水式に明治天皇が臨席するのに伴って運転されたもので、横須賀には仮の停車場が設けられたようです。

 以降、横須賀での式典が行われる際などを中心に、横須賀線は天皇や皇族に利用される路線になりました。特に大正天皇の静養地として葉山御用邸が建設されてからは、逗子発着のお召列車・御乗用列車もたびたび見られるようになりました。特に1926年末に大正天皇が崩御した際には、昭和天皇乗車のお召列車と大正天皇の霊柩列車が逗子発で運転され、新聞などでも大きく報道されました。

 ちなみに、葉山御用邸が建設された頃には、横須賀線の開通効果もあって鎌倉・逗子エリアは保養地、別荘地としての人気が高まっていました。また昭和初期には鉄道省自ら「海の家」を設け、海水浴客の呼び込みを図っていました。横須賀線の開通は鎌倉・逗子エリアの行楽地化にも影響を与えていたのです。

■戦時中の延伸で久里浜へ

 1930年代に入ると横須賀の海軍関係施設は周辺地域にも広がっていき、横須賀市も周辺の町村を編入して市域を拡大していきました。特に1937年に横須賀市に編入された久里浜では、1939年に海軍通信学校、1941年に海軍工作学校と海軍機雷学校、と一短期間のうちに多くの軍事施設が建設されました。鉄道の建設も進められ、1942年には東急(現・京急)の久里浜駅が、1944年には横須賀線の久里浜駅が開業しました。また、久里浜駅北側から駅の西側を経由して海岸線へ向かう貨物線(臨港線)も建設され、付近一帯にあった海軍軍需部倉庫への貨物輸送も開始されました。

 ところで当時は「陸運統制令」という勅令によって、日本各地で多くの鉄道路線が休止・廃止に追い込まれていました。他線区がこのような状況だったにも関わらず、久里浜には新たに2路線も建設された、という点は、当時の横須賀線や久里浜の位置付けを示しているといえます。

 軍の要請によって建設が進められ早々に都心への直通を果たした横須賀線、民間が軍を巻き込む形で建設され、都心乗り入れに苦戦した総武本線。生い立ちの全く異なる両線は、1945年8月15日、大きな転機を迎えます。

32系電車
横須賀線用の電車として登場した形式。終戦直後まで横須賀線で活躍し、その後は東海地方などで晩年を過ごしました。

これでいよいよ戦前編が終わり。次回からは戦後編になります。お楽しみに!

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