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同人誌「横須賀線・総武快速線」試し読み その6:戦後の混乱から通勤地獄へ

はい!みなさんこんばんは、長沢めいです。

いま、冬コミに向けて「横須賀線・総武快速線」の同人誌を制作中ですが、今回のコミケでは会場での立ち読みを不可とさせて頂くことに致しました。そこで、事前に内容をある程度お見せしたい!と思いまして、冒頭部分を中心に何回かに分けてnoteで公開していきたいと思います。

ちなみに、メロンブックスさんでは冊子版の予約受付を開始しています!
(※電子版は後日公開予定です)

今日は、横須賀線・総武快速線の歴史について概説したパートの6つ目、「戦後の混乱から通勤地獄へ」をご紹介します!
(※文面は今後、調整する可能性がありますのでご了承ください)

なお、マガジンにまとめてますので、他の記事はこちら↓からご覧ください

戦後の混乱から通勤地獄へ

沿線に多くの軍事施設を擁していた横須賀線と総武本線ですが、1945年8月15日、終戦の日を迎えたことによって路線の性格は一変します。ここからは、戦後の混乱期から高度経済成長期に入るまでの両線の動向、そして横須賀線・総武快速線の直通運転計画が浮上するまでの過程をみていきましょう。

■日の丸から星条旗へ

終戦を迎えたことによって、横須賀にあった日本海軍の施設は米軍によって接収を受けます。横須賀の街自体は大規模な空襲こそ免れていたものの、戦中からの物資の不足によって諸設備は壊れたまま放置され、さらに終戦直後の混乱の中での窃盗などもあり、施設内は荒れ果てていたといいます。
なお、横須賀に大規模空襲が行われなかった理由について「米軍が後に利用することを考慮していた」とする説もありますが、現代では他都市への攻撃が優先されたためで米軍基地への転用は意図していなかった、とする説が有力です。そのためか、接収直後の米軍内では施設内の荒廃状況を踏まえて横須賀基地を爆破する案も出ていたようです。
しかし、1946年4月に4代目の基地司令官に就任したベントン・デッカーは爆破案を一蹴し、基地としての再整備を進めます。折しもアメリカとソ連の間での対立が深まっており、極東地域での軍事拠点が求められていたのです。
一方、デッカーは海軍共済病院の分院を衣笠病院として再興させることに尽力したりなど、横須賀市内の復興にも力を発揮しました。基地司令官の任期は2年でしたが、デッカーの留任を望む声は大きく、市議会議長からGHQのマッカーサー宛てに任期延長の嘆願書も提出されたといいます。結果、デッカーの任期は2年延長され、都合4年間、横須賀基地で指揮を執ることになります。
1949年にはデッカーの胸像が建設されましたが、その台座に付けられたプレートには「横須賀市再建の恩人」の文字が刻まれました。のちにアメリカ文化が受け入れられ、アメリカ風の店も街に馴染んでいった横須賀独特の雰囲気は、デッカーの功績による部分も大きいのではないでしょうか。

■「ALLIED FORCES CAR」

横須賀の街の復興に際して、米海軍が果たした役割は大きかった一方、米軍をはじめとした進駐軍の人員や物資の輸送は、日本の鉄道にとって大きな負担となっていました。空襲の被害や戦時中からの資材不足によって車両が不足する中で、さらに戦後の混乱により「買い出し列車」などの需要も急増し、日本各地の鉄道は限界を越えていました。その中で進駐軍は日本各地の路線に専用列車の運行を要求してきたのです。
終戦時点の横須賀線では動かなくなった電車を電気機関車で牽引する「列車」も運転されるような状況でした。しかし、駐留軍からの要請は横須賀線も例外ではなく、1945年から6年ほど専用車が連結されることになりました。「ALLIED FORCES CAR」の文字が書かれた専用車は、終戦直後の横須賀線を象徴する車両でした。

■横須賀線は12両編成に

1950年になると横須賀線の車両の補修修繕も進められて、車体も青とクリームのツートンカラー(スカ色)に塗り替えられていきました。1951年には新型車両として70系が導入され、横須賀線の車両も徐々に更新されていきました。
また、戦前には既に7両編成で運転されていた横須賀線でしたが、戦後はさらに設備が増強され、1951年には12両編成での運転も始まりました。そして1963年には111/113系が導入され、1965年には一部列車が逗子-東京間で15両編成での運転となりました。

70系電車。1950年代の横須賀線を代表する形式。
他線区にも導入されましたが、横須賀線は70系が最も多く投入された路線でした。

このように1950年代以降、車両面では着実に改善・増強が進んだ横須賀線でしたが、沿線の宅地化はそれを上回るペースで進み、横須賀線の混雑は日を追って悪化していきました。
さらに、当時の横須賀線の電車は東京-大船間で東海道線の線路を走行していましたが、1950年代の東海道線は多数の特急列車や急行列車、そして貨物列車が運転されていました。これ以上の増発は困難と言われる一方で、需要の増加は著しく、もはやパンク寸前と言われていました。
1964年に東海道新幹線が開通したことで東海道線の特急列車や急行列車は減少。一時的に余裕が生まれますが、同時期に藤沢や茅ケ崎エリアの人口が増加し通勤需要が高まったため、通勤電車の増発が必要となり、余裕のない状況に戻ってしまいました。

東京周辺の国電(国鉄の電車)に関しては次のようなデータがあります。1959年の時点で定期利用者の需要(輸送人キロ)は1936年の約5.7倍に増加した一方、輸送力(電車キロ)は約2.7倍。単純計算で東京周辺の電車は戦前の2倍以上混雑している状況になっていたのです(「東京都心及び周辺の鉄道計画」滝山養:道路(241)[58])。
このように、国鉄では戦後の通勤需要の増加に対し、車両も線路も限界まで使用して綱渡り的な対処に追われていました。さらに、安全対策に関わる技術の開発や装置の配備も十分には進んでおらず、各地の路線で脱線事故や衝突事故が散見されていました。
そのような状況下で横須賀線にも重大事故が起きてしまいます。1963年11月9日21時51分頃に発生した鶴見事故です。

■鶴見で多重衝突事故

鶴見事故は鶴見駅から西へ約2kmほどの地点(現在は首都高横浜北線の陸橋が架かる付近)で発生した事故で、東海道線下りの貨物列車と横須賀線の上り列車、下り列車の計3本の列車が衝突する多重衝突事故でした。
直接の原因は貨物列車の脱線で、脱線した貨車が隣の線路にはみ出したところへ横須賀線の上り列車が衝突してしまいます。このとき、横須賀線の上り列車は下り列車とすれ違っている最中でした。そのため、横須賀線上り列車の先頭車は下り列車の4両目と5両目に衝突。結果、161人の死者を出す大惨事となりました。
事故発生当初は原因が判明せず、北海道の狩勝峠にあった廃線を使用しての大規模な検証が行われました。結果的に車両やレールなどの改良が行われましたが、検証中、国鉄は世間から強い非難を浴びました。国鉄は前年の1962年にも常磐線の三河島駅付近で多重衝突事故を起こしていたのです。
また、この事故の遠因(もしくは被害を大きくした原因)は過密ダイヤだとする主張もあり、国鉄側でも、例えば1966年1月17日の運輸委員会では、磯崎副総裁(のちの総裁)もこの説を引き合いに出して、線路の増設が必要だとする説明を行っていました。

終戦の混乱が収まりきらないうちに通勤ラッシュ対応に追われる。横須賀線の戦後20年は、まさに波乱の時代でした。


次回はいよいよ、横須賀線と総武快速線の直通運転へ向けて検討が始まる時代のおはなしです!

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