見出し画像

同人誌「横須賀線・総武快速線」試し読み その4:総武本線は都心を目指す

はい!みなさんこんばんは、長沢めいです。

いま、冬コミに向けて「横須賀線・総武快速線」の同人誌を制作中ですが、今回のコミケでは会場での立ち読みを不可とさせて頂くことに致しました。そこで、事前に内容をある程度お見せしたい!と思いまして、冒頭部分を中心に何回かに分けてnoteで公開していきたいと思います。

今日は、横須賀線・総武快速線の歴史について概説したパートの4つ目、「総武本線は都心を目指す」をご紹介します!

(※文面は今後、調整する可能性がありますのでご了承ください)

なお、マガジンにまとめてますので、他の記事はこちら↓からご覧ください

総武本線は都心を目指す

千葉県初の鉄道として開業した総武鉄道は、1907年に国有化されて総武本線となります。しかし、その始発駅は隅田川の東岸・両国に置かれていたため、都心部へのアクセスは決して便利ではありませんでした。そのため、総武本線は開業直後から他路線との接続、都心部への乗り入れが模索されています。

■浮上しては消える路線案

 実は、総武鉄道では開業直後から路線の延長を何件か申請していました。「日本鉄道史 中編」という本の記載によれば、「小岩から赤羽に至る路線」、「平井付近から小松川(現在の新小岩駅付近)を経て行徳に至る路線」など、現在の路線網からは想像できないようなプランも含まれていたようです。

 これらの案は当局によって却下されたり、総武鉄道側から取り下げたりしたため実現しませんでしたが、1896年に申請された「本所停車場(現・錦糸町駅)より本所区横網町(現・両国駅付近)に至り隅田川を渡りて万世橋(現・秋葉原駅付近)に至り日本鉄道線に接続する高架複線」という計画は1898年に仮免許が交付され、やっと都心部乗り入れ計画が具体化しました。

 ここで「日本鉄道線に接続」という文言が出てきますが、これは当時未開通だった上野-東京間の線路を指しています。正確に言えば上野-秋葉原間は既に開業していましたが、当時は貨物専用の線路しか営業しておらず、しかもその線路は高架化されていなかったため、地元から高架化を強く求められているような状況でした。(※最終的には貨物線も秋葉原の貨物駅も高架化されています)

 このように接続相手の日本鉄道線の動向が定まらない状況でしたが、総武鉄道側では両国までの線路を建設することになったのでした。

■東武と利害が一致する

 工事が進んだ結果、1904年4月5日に本所-両国橋間が開業し、総武鉄道のターミナルは両国に移ります。

 そして、実はその全く同日に東武鉄道の亀戸線(曳舟-亀戸)が開業し、総武鉄道から亀戸経由で東武亀戸線に入り、さらに北千住から日本鉄道海岸線(現・常磐線)へ直通する、というルートが完成しました。なお、このときには総武鉄道は成田鉄道(現・成田線)、日本鉄道は山手線経由で官営鉄道とも接続していたため、5者での連帯運輸が実現しました。

 さて、総武鉄道側にとってはまさに「渡りに船」といえる東武亀戸線の開業でしたが、東武鉄道側の狙いは何だったのでしょうか。

 実は開業時点での東武鉄道の起点は北千住で、こちらも都心への乗り入れを模索していたのです。1902年には吾妻橋を始発駅としますが、当時の東武鉄道は越中島を本命にしていました。亀戸は北千住から越中島へ向かう中間地点だったわけです。

 そして東武鉄道は越中島へ向かうルートとは別に、両国へ分岐する路線を建設して両国を起点にするプランも持っていました。その代わりとして総武鉄道へ乗り入れることで、東武鉄道は両国進出を果たしたのです。

 このように亀戸経由での直通運転は東武鉄道にとっても総武鉄道メリットのあるものだったのです。

■亀戸線と袂を分かつ

 しかし、先述の通り1907年に総武鉄道は国有化されたことによって、東武鉄道と総武本線との関係に変化が生じます。

 もともと東武鉄道は栗橋駅付近などで官営鉄道と競合関係にあり、1907年に足利町(現・足利市)まで延伸すると、両毛線とも利用者の奪い合いになり、東武側は鉄道院との協定の範囲を越えて値引きを行うなど競争がエスカレートしていました。

 一方の鉄道院も、東武の越中島への延伸計画が期限切れとなった際には再申請を却下し、同地には官設の貨物線を敷くことを決定します。鉄道院側は報復措置ではないとしていましたが、両者の対立はさらに深まりました。

 この対立の影響とは明言されていませんが、結果的に1910年には東武からの両国橋への乗り入れは中止となり、東武は起点を再び吾妻橋(当時の駅名は「浅草」)に戻します。また、総武線からの貨物列車はしばらく残されたものの、新小岩と金町を結ぶ貨物線(通称・新金貨物線)が1926年に開業したため、総武本線と東武亀戸線との直通運転は完全に解消されました。

■東京市街線の工事は進む

 ここで話を少し戻します。

 総武鉄道線は万世橋まで延伸する計画があったものの、接続相手の日本鉄道線(上野-東京間)の線路の計画が固まっていなかった、と説明しました。しかし1906年に日本鉄道も国有化され、同じく現在の中央線を運営していた甲武鉄道も国有化されたため、秋葉原駅周辺の鉄道網の整備が一気に進むことになります。

 1919年には中央線が東京駅への乗り入れを果たし、1920年には上野-東京間の工事が始まりました。総武本線も秋葉原を経由して中央線と接続する計画が立てられましたが、都心への乗り入れは電車のみとして、汽車が牽引する客車列車や貨物列車は両国止まりとする方針となりました(朝日新聞1920年 1月19日付 朝刊など)。

 このように東京周辺の各線の工事や延伸計画は順調に進んでいましたが、東京は災禍に見舞われます。1923年9月1日に起こった関東大震災です。

■秋葉原駅上空を乗り越え

 関東大震災では10万人以上の死者・行方不明者が出たことが知られていますが、建物、そして鉄道も大きな被害を受けました。都心部では神田駅などが火災の被害に遭って多くの焼死者が出たほか、総武本線の錦糸町付近の高架線も線路が大きく歪む被害がありました。また、建設中だった上野-東京間の高架線も建築資材が焼失してしまい、工事はストップしてしまいます。

 しかし、上野-東京間の建設と総武本線の延長工事は復興事業の一環として事業が進められることになり、まず上野-東京間の高架が1925年11月1日に完成しました。続いて、長年問題となっていた上野-秋葉原間の貨物線も高架化が実現し、そして1931年には総武本線の延長工事も始まります。

 工事開始直前には事務所の火災によって設計図が失われるというアクシデントもありましたが、工事は順調に進み、翌1932年7月1日に両国-御茶ノ水間が開通しました。

 ちなみに当時の秋葉原駅には先述のように高架の貨物駅も広がっていたため、10本以上の高架線の上を跨ぐように、高さ15mの位置にホームが造られました。また、この区間の開業当時の電車は2~3両編成で運転されていましたが、秋葉原駅のホームは余裕をもって211mの長さで建設されており、10両編成の電車が走るようになった現代でも十分な長さが確保されていました。秋葉原駅の総武線ホームは、高さ、長さともに当時としてはハイスペックな設備を備えて開業したのです。

隅田川橋梁
両国-浅草橋間に架かる橋梁。中央部は日本で初めてランガー橋という方式を採用しています。両国-御茶ノ水間は他にも、高架線同士で立体交差する秋葉原駅など、前例のない工事が行われた最新鋭の路線でした。


次回のnoteは横須賀線側に話題を移して、その開業までの歴史を辿ってみます。お楽しみに!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?