或るアヤナミストの雑感(シン・エヴァ公開に寄せて) 前編

皆様、はじめまして。そうでない方は御久し振りです。ツイッターの片隅ではmaximam357のアカウントで、二十年ほど前のエヴァ・ファンフィクション界隈では 砂漠谷麗馬のハンドル・筆名で雑文を書き散らかして居たしがない元FF書きで御座います。

急な気まぐれから今回NOTEを始めるに辺り、まずは普段出入りしているエヴァのファンサイト、綾波展さんに投稿した掲示板の文章を少し手直ししつつ、ツイッターでも出してみようかと思い先ずはこれを書いております。もし御時間があれば御目汚しとは存じますがどうか良しなに御付き合い頂ければ幸いです。

さて、今回くだんの「シン・エヴァンゲリオン劇場版 :ll」公開によって、約25年の長きに渡り我々を興奮させたり困惑させたりし続けた『エヴァ』がついに完結を迎える、と言うので、あの1997年の夏、EOE(エンドオブエヴァンゲリオン、しかし元々はジェームズ・ディーンで有名なスタインベック作品の映画化作品「エデンの東」の略称だったらしい。父の愛を求める主人公と言う共通点、智恵の実を口にした事に依り楽園追放を受けたアダムとエヴァのさまよった先…如何にもエヴァらしい気の利いた略称では在ります 苦笑)の「唖然」が嫌でも脳内で反芻される状態で…公開の一週間ほど前に突然「月曜日からやる」と言うアレな封切り自体に少々あきれつつも、昨日「見てまいりました」。

世間の緊急事態そのものは未だはっきりと「解除された」とは言い難い状態の中、二重マスクで眼鏡が曇りやすい状態且つ一切飲み食いせずの約一時間半…そして。観終わって最初に感じた物は?

25年前は「苦笑」。そして今は。   

「喪失感」ですかね…自分でもこんな感覚が残っていた事に驚いて居ますが。

残ったのは「感心」と「苦笑」と「諦観」と「何ともいえぬ虚無感と寂しさ」でしたね。これが『作品』と『あの人』にとっての限界なのだろうなあと。

では、まずは、ポジティブな方の評価から。 

成程、「感心」した点は多々ありました。旧テレビシリーズおよび旧劇が終わり、それを当時の評者が「疎外の物語」「脱構築」と持ち上げた時、小生はあれを

「個人への逃避・社会と言う視点の欠落・度し難い人間中心主義」

と散々叩いた覚えがあります(苦笑)そして、あの様式がその後「セカイ系」なる形で再生産されそれはそれで叉批判される、といった流れも今は昔…

その意味では「シン」、というか「新劇」全体としてその辺りは「大きく改善された・進歩した」と言う事は出来ると思います。庵野氏の「割書きの前の独り芝居」は何時しか「其処に他人や他のいきものの存在」がある、「社会・世界」へ目を向けた物にはなって居ました。

「シン・ゴジラ」において聊か浅薄な感はあったとはいえ「国家」と言う物に氏がそれなりに真面目に視線を向けた様に、「他者と、彼等が作る共同体」と言う物が庵野氏の認識の中にわりとしっかり根付いた事は伺えます。

(そりゃまあ、自分でカイシャ立ちあげてそれを回す以上はそうでなきゃ困るんですが 苦笑)

さて、ネタバレを嫌う方は此処から下はご覧にならないでください。

それは言うまでもなく「第三村」と「主人公を残して大人として自立し、共同体を回し家族を守る側」になった同級生達の姿に集約されている訳ですね。Qでは「見えなかった」部分をああいう形で持ってきた。二次創作に置いて「ポストEOEネタ(*1)においては絶対に必要だ」と小生が考えて居た物が大体表現されているようにも感じました。

(注1   97年に旧劇が公開された後、あの幕引きに納得のいかない物を感じたファンが「あの赤い浜辺のその後」の世界をファンフィクションで補完しようとした作品が幾つもネット上で発表された。「世界がシンジの願いに依って再構築された学園系」と言った物を除けばそれは必然的に変わり果てた地球を舞台にしたり、其処に生存者がいれば過酷なサバイバルを強いられる事になる)

まあ、其処で「王道」なら、その「生き残った者たちの共同体」の存在こそが「主人公が見つけた守るべきもの」として認識されていく…というのが基本的な流れなんでしょうが、そこは庵野氏が「どこか他人事」の様に感じているように見えて『あー、其処は成長はしてないのね…』という感じは受けましたが。

即ち…其処に「他者の居る世界」やその「営み」を認識しつつ、「シンジは最後までその一員ではなくあくまで居候・マレビトとして其処にひと時身を置く者」で在り続けた訳です。此処は、黒レイがその「共同体」の一員となる事で「生命と世界」を知って感動して行く、という描写と対照的です。あのまま命が尽きる事が無かったならば、彼女はあの村を「わたしの場所」として、『我々の心の中にも』永遠に生き続ける事が出来たろうに…

(あるいは、せめてシンジのモチベーションがレイの愛したあの村と人々を守る、と言う物であったならば我々は満足して劇場を出る事が出来たのかもしれませんが・・・それはすなわちシンジが『共同体の中に自分の場所を見つける』と言う事でもあった筈なのですがね)

しかし、シンジの在り方は何処までもマレビトであり(むしろあの村は「彼」が居るが故にアスカの方にとって帰る場所になっていた感すらある)、黒レイがその生涯を終えた事すら「其処から離れる」理由づけにしか繋がって居無かった。

ネルフやブンダー同様、あそこも「シンジの場所」ではなかった。

一つに、我々にとっての(二次創作的な)(綾波レイの物語としての)「補完」の可能性としては、

『シンジが村に根付き、あの世界で生きていくことを決意しレイに名前を贈る(まあ、これは付けるなら…『ノリコ』ですかね 苦笑 『モヨコ』の方は眼鏡さん説に世間がなっちっゃてるので 苦笑 そう単純に作者と作品を同一視するのもどうかとは思いますが・・・「ヒデアキの妻モヨコ」が宇部の眼鏡っ娘なら「しんじを待つノリコ」はあの村に居たっていいと思う訳ですよ。我々のもう一つの世界線として。)』

その後は「村や世界を存続させるためにもう一度闘って」、其処で死んでも、あるいは「いつかきっと帰ってくる」「まっているから」でも構わない。

其処に「主人公と社会・世界を結ぶ物語」が生まれる。「あやなみれい」と「彼女が人々やいのちに向ける愛」を紐帯として。

我々が「見たかった」物語は「これじゃないのか」と思う訳です。


ええ、そうです。確かにエヴァという物語は「創作者・庵野秀明の私小説・プライベートフィルム」なのかもしれません。結局は全編彼の「自分語り」へと収斂されてしまう。無論、それを楽しみに見ている方達もあるのでしょう。しかし、「作品とは観客に何かを伝え、残す物」「ボク(作者)の物語ではなく或る程度の一般性を持ったアナタの物語」というスタンスは決して特異な物ではないし、「観客が普遍的に求める」ならばむしろ「そちらの方が常道」なのじゃないか?とも思う訳です。

何故、自分は綾波レイと言うキャラクターに拘るのか。彼女の存在に何を求め何を見出して来たのか。

今まで、余りに漠然と、そして軸の定まらぬ儘紡がれてきた「彼女の物語」に「今になって」一つの軸が見えてきたのも皮肉な事に今回の映画だったのかもしれません。それは結局「社会や共同体に自らの居場所、或いは自身とそれをつなぐ意味を未だ見いだせない者」=「主人公(及びそれに自己の何かを仮託する観客)」と「共同体や他者」を「共感で温かくつなぐ紐帯の可能性」だったのだと。

即ち「絆」です。言葉では何度となく語られたそれが「ようやく実体と実感を持って描かれた様に見えた」それが、皮肉にも「綾波レイの略最後の物語」になって其処で再び「断絶」で終わるとは。

叶うなら…レイに伝えてほしかった。シンジに「ねこはかわいい」「赤ちゃんはやわらかい」「田植えは大変。でも、たのしかった」「本は、色んな事を教えてくれる」と言う事を。そこが、かけがえのない「わたしの場所」になったと言う事を。彼女がその余りに短い生涯で触れて、感じて、素晴らしいと思った「世界や命の事」を、他者を恐れる彼に伝えてやってほしかった…恐らくはそれだけが、彼が「世界は何故存在しなければならないのか」「それを守りつなぐ事の意味」を伝える事が出来たんでしょうけれどもね。「本当の意味での、人類補完計画に対するアンチテーゼ」。なぜ「それが否定されるべきなのか」。それをレイの言葉で、彼に教えてほしかった。


それは同時に 

「我々にとっての(或いは、今やこれからの日本人にとっての)リアル」が「どちらにあるのか」

って話でもあると思う訳です。

「庵野氏」が帰還した、「日本が豊かな平成の侭の」宇部の『新海誠か?』という世界なのか、或いはどこか昭和20年代をほうふつとさせる「縮みゆく世界を生きる共同体」の姿なのか…ってね。レイは…後者に「必要なひと」です。主人公=観客の「心」をその共同体に回帰させるために。

果たして我々にとってどちらの物語が「求められるものなのか」って話でもあると思う訳ですわ。

(まあ、後『補完の物語』のストーリー性をブーストさせるなら「主人公が今一度闘うのは」「レイの寿命を延ばす手段を得るため」…ってのだと一気に収束するんですがね。この辺は「元二次創作者」の悪い癖でつい「御話を組み立てるのに熱中してしまう」 苦笑)


まあ、結局庵野さんの「世界」は其処には無かった、って事は解るんだけどね(苦笑)

まあ、なんにせよ…

ポジティブ評価寄りの部分としてそうした物語の展開を作れる所までには「世界が描かれるようになった」と言う点はまあ、挙げられると思うんですよね。あと、「人間中心主義の問題」にしても、『村に居るにゃんこ・わんこ、池ではペンペンの同族達が楽しそうに暮らしている』『補完⇒世界再生のシーンで旧劇の十字架から、今度はちゃんと人の姿が描かれ其処には犬や猫、その達の動物達の姿も描かれていた』『加持の目的は地球生態系全体をみた生命の保存⇒村に下りてくる保存カプセル』みたいな描写で描かれている…それ故に「惜しい」。実に惜しい。終盤のアレの「進歩の無さ」には唖然とせざるを得ない(苦笑)


さて此処からdisります♪(後編に続く?)



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