見出し画像

ポエムその他についての雑感、今読んでいるもの。

リモートワーク中の彼女が出社日で、昼過ぎまで部屋にひとりいつもの家事をしつつ、コーヒーを淹れて読みかけの詩集やエッセイ、今開催している企画「#みんなでポエム書いてみた」に寄せていただいた作品たちを手に取るなどしながら(...って書くと何だかとても優雅な感じがするけれど、これを書いたらぼくも仕事に行く。余裕なんかない)。


ポエムについて、最近実感したこと

ポエムについて、最近実感したことをちょっと書いておきたい。
ぼくはこれまで、ポエムというものは書き起こせばもともと何千字レベルにもなろうかという感情や情景の描写をぎゅっと凝縮させて表現したものだと思っていた。巧妙に練られた何百字、ときに何十字。そのなかに選びとった言葉、それを敢えて漢字に結ぶこと、ひらがなにほどくこと。そっと置かれた句点。整然と、ときに歪につくられた行間。その所々に、文字になるはずだったものがすぅっと染みこんでいる。何百字、何十字のその先に、文字にならなかった心象が見え隠れするもの。ポエムとは、そういうものだと思っていた。
でも、その逆もあるんだなっていうことに最近気づいた(自分が不勉強であるということはポジティブに言い換えれば新しい発見に満ちているということであると、無責任ながら思うようにしたら何だかうれしい気持ちになった)。
逆っていうのは、たったひとつの感情や情景(たとえば「愛」「朝」「過去」など)、それを、縦横に散らばる言葉たちを総動員して表現するようなもの。何だろう、真ん中に開いている穴の部分の心象を表現するためにドーナツをわざわざつくって、そこに穴(表現したいこと)があることを浮かび上がらせる...みたいな。もちろん今挙げた「愛」「朝」「過去」はそれぞれ「失った愛」「泣きぬれて目覚めた朝」「戻りたい過去」みたいな具合にすべてが異なる心象であり、厳密に定義づけできるものでもないわけで。表現したいことのまわりを埋めていくことで、それを浮かび上がらせる。そんなの当たり前のことかもしれないけれど、じっさいそう解釈できてみてはじめてストンと落ちたというか。そんなふうに思えたのです。

ポエムのかたちについて考えだしたらきっときりがないのだろうけど、素敵だと思うものには「なぜ」を考え、それを言葉にできるようにしておきたい。全然まともな知識もないのに「やりたい!」の一心ではじめた「#みんなでポエム書いてみた」企画も、主催者として恥ずかしくないくらいには。


「なぜ」を考えて、「丁寧に」言葉にすること。ちょっと弱音

今は企画をやっているので何かと口をひらけば「ポエムポエムポエム...」といった感じで申し訳ないのだけれど、上で書いたことって結局は別にポエムに限ったことではないのだろうな、とも思っていて。前からそうだ。ふだん読ませてもらうみんなのnoteをシェアすることもそう。シェアしたいなら、「なぜ」を伝えるために140文字のなかで全力を尽くすべきで。
これまで散々聞かせてもらった、教えてもらった。大切な大切な、「書くことと読むことについて」。そこの大原則を、ちょっと疲れていたり、自分が書くことが滞っていたりするときにはいとも簡単に手放してしまいそうになる。いやいやいけないと、姿勢を正す。こんなくり返しで、すこしでも成長できたのだろうかと思う。(もちろんさいごは自分のためではあるけれど)ここにいてだれかのために、だれかの安心や楽しみになっているだろうか。おこがましくも、果たしたい役割に近づけているだろうか。ちょっと気を抜けば、ダメな自分の囁きが頭のなかをたいそうなボリュームで占めにかかるから。そんなことないよって言ってほしくて書いているわけじゃないんです、ほんとに。「やりたい」と「できている」の乖離を今ちょっと、自分で認識しているから書いている。恥ずかしいこともね、外に出さないと。勢い半分で吐いた弱音はこうして晒しておくのが一番。今日は雑感だから、好きに書かせてもらいました。
そう、だから、ポエムだろうと企画だろうと、もっと言えばnoteだろうとそうじゃなかろうと。受けとったものにたいして、「なぜ」を考えて、「丁寧に」言葉にする。その一つひとつが自分が選んだ道だと思って。
その先にすこしでも、明るい景色を見るために。


今、読んでいるもの。話を戻して

まだ続くのかよ!と思った方、すみません。今日は雑感なので、気にせずいきます。

最果タヒさんの詩集。何でこんな言葉が出てくるのだろう...そんな連続。まっすぐに響くようでいて、ふわと漂っているようにも感じられる言葉たち。「わかりたい?教えてあげない!」って言われてるような、そんなツンデレな面もある気がしてならないのです。

ハサミで切り落としたような部分のビルが、
ゆっくりと空を滑りながら海へと落ちていく、
それを、遠くのひとは夕日だと言った。

「ハサミの詩」の冒頭、衝撃でした。あたりを真っ赤に染めていく夕日。こころ穏やかでない夜の到来。きっとこれからも、何度でも手に取るのだと思います。

白鳥央堂さんの詩集。美しい装丁、文字の配置からページ割り、言葉を、文字を、白紙の上に散りばめたような。行間のみならず、上下にも配置された余白が神秘さを際立たせるように感じました。一定のボリュームのあるポエム、まるで物語のような。まだ半分なので、これから読み進めていきます。

阿部日奈子さん。これは詩集なのかエッセイなのか旅行記なのか...もったりゆらり、日記のような形式で進む前半。タイトルはその文体のことを指しているのか、アジア圏での生活のようすを綴っているのですが、内容は(素晴らしいとは思うけれど)決して低空飛行などではなくむしろ波乱に満ちて。こちらも後半がたのしみ。

ポエムの勉強を、と思い、パラパラ手に取る本たち。おすすめの詩集を何冊かご紹介いただいているので、このあとはそちらにもチャレンジするつもり。言葉のあいだに漂う何かを探す、という作業、解釈。そんなことを考えてもみるけれど、まずは楽しむこと。「わかんない、でも好き!」それを探すこと。大切にして、読んでいこうと思っています。


おわりに

ひとつ言えるのは、文章は長かろうと短かろうと簡単なものなんかないということで、やっぱり「書きたい」とか「こころを込めて」とかそういった感情や気持ちは結局にじみ出てきてこれはまるで生き物のようなものなのだろうなということなんですよね。生きているぼくらが生みだすもの、だからそこに生命が宿っているというのはちょっと考えればわかることで。それだからこそ(合う合わないはあるけれど)それを軽く扱うということは書いた人を軽く扱うと言ったことと同義のことなのだろうなんて、あと20年くらい早くわかっていなければならなかったことをnoteをはじめてからようやく実感しているところ。読んでくださった方にはまとまりなく申し訳ない気持ちもあるけれど、ここまで体裁も何も気にせず書くこともそうそうないから今日はゆるしてほしい。自粛明けに向けて、仕事も忙しくなりそう。またこれでひいひい言って、言葉と向き合うことがおろそかにならないように、今一度自分に言い聞かせておきたい。
まさか3,000字書くとは思わなかった...けれど、最近ちょっとモヤっとしていたことも、書けてよかった。
お付き合い、ありがとうございました。


告知、何度でも

すみません、やっぱり書かせてください。

「#みんなでポエム書いてみた」企画、絶賛開催中です。期限は6月14日、概要は上記の企画告知noteをご覧ください。みなさんの言葉、よせてください。
マガジンもつくってあるので、参加作品はこちらから。よかったら、フォローお願いします。

以上、今度こそほんとうに終わります。
ん、今日も寒いなぁー。
と思ったら、書いてる間ずっと窓開いてた。
ありがとうございました。
お仕事行ってきます。










この記事が参加している募集

いただいたサポートは、ほかの方へのサポートやここで表現できることのためにつかわせていただきます。感謝と敬意の善き循環が、ぼくの目標です。