寮における閉塞性の考察

この記事は、Kumano dorm. Advent Calendar 2021(https://adventar.org/calendars/6338)の11日目の記事です。

 結局2週間も提出が遅れてしまって申し訳ない。自分の中で意見の整理はずいぶん前にできていたのだが、逆にそれで満足してしまっていた。何かを言語化するのは得意ではないが、自分の記事を読みたいという特異な人がいるかもしれないと思い、いい加減筆を執った次第だ。「寮の閉塞性の考察」だなんてかっこつけたタイトルにしてしまったが、あまり何かを批判する意図はない。寮ってこんなとこあるよねって日ごろから感じていることを良い機会だし記録し、共有して、誰かに批判してもらいたい。寮について、談話室について、そして自分について少し語りたいと思う。


寮の閉鎖性ついて
去年寮をやめた友人と少し前に2人で会う機会があった。彼は別に寮でうまくやれていたし、共同生活にもそこまでストレスを感じてはいなかった。いったいなぜ一人暮らしを選んだのか不思議に思い尋ねたところ、彼は「寮みたいな内輪ノリが強い場所にいてもしょうがないし、今後社会に出て特に海外で働いたりすることを考えているなら寮は適した場所ではない」と答えてくれた。前後の話をだいぶ省略して、この一言だけこの文章に載せた結果、かなり説明不足になってしまっていて申し訳ない。ただ自分はこの意見にとても共感したし、寮について考えるきっかけにもなった。

 寮には寮に入りたいと思ったしか入ってこない。当たり前だがこれは結構重要な問題だと思う。寮における閉鎖性というのは根本的にはこの点に尽きると思う。寮に対する不信感や、寮に入りたくないと思う理由を本当に理解している寮生は(自分も含めて)一人もいない。ゆえに寮における話し合いは偏った意見がやはり出やすく、悪く言えばエコーチェンバーのような形になっていると感じる。これに関する一番わかりやすい具体例は時計台占拠になるだろう。時計台に関する議論ではいつも「他の一般の京大生がどう感じるか」という視点が軽視されている。時計台に登っているのを見て、熊野寮に入りたいと感じる生徒ももちろんいるだろう。ただ逆に、電車で誰かが騒いでいたら不快に感じるのと同じような感想を持つ人もいるだろう。はたまた自分のように熊野寮の評判が悪いせいで親から入寮を止められるというシナリオとしてあるだろう。これがなぜ問題かというと、これでは寮は福利厚生施設として機能できていないからだ。寮はすべての京大生に対して開かれた空間であるべきで、等しく入寮する権利を持つ。ただ実際のところ寮に入れるのはこうした「熊野ってヤバいとこらしい」という噂を気にしない人たちだけだ。多額の奨学金を借りていて安価な住居を必要とする生徒がいたとしても、その人のためのセーフティネットとして現状の寮は健全な解決策になっていない。
 途中から時計台占拠に関する批判になってしまっていたが要約すると、寮では自治に携わる側の意見が強くて、周りからどう見られているかについて無頓着すぎるという内容になる。寮を存続させるためには、社会からの支持されることは非常に重要な要素になる。

談話室の閉鎖性ついて
談話室でいつもボドゲばかりしてる自分が言っていいのか分からないが、雰囲気が閉鎖的だなと思ってしまうことがある。例えば部屋に男性しかいないときや、あるいは入退寮で人が入れ替わるときに。閉塞的であることに人は無頓着である、というか気づきづらい。外部から自らを客観視しないと内輪ノリを自覚できない。だからこそ普段からそれに対して意識的でなければならない。

 そもそも談話室という空間は制度的にどうしても閉鎖的になってしまう。部屋決め会議ではドラフトで自分たちの好きな新入寮生を指名する。このときみな自分と気が合いそうな性質を持った人々を選んでしまう。例えばスマブラと麻雀が好きな1回生がいればA3の人はみな取りたいと思うだろう。その1回生がもし出不精で談話室に引きこもりそうなタイプであればなおさら良い。こうしてどんどんと似たような性質を持った人が固まって集団を形成し閉鎖的なコミュニティが出来上がる。麻雀とボドゲとスマブラが同時に行われている現在の談話室は自分にとっては居心地が良いが、初めて来る人がそこに入るのには勇気が必要になる。

 寮に入ってくる人は別に皆がスマブラをしたいと思っているわけではない。例えば単純に家賃の安さを魅力に感じて入寮する人も多い。ただ現状、こういう人たちがブロックに馴染むのにいくらかハードルがあるように感じる。寮というのは生活の場である以上にコミュニティでもある。どんな人であっても共同生活を送るためにコミュニケーションをとる必要があるし、可能な限り親しくなれる機会は多いほうがいい。新歓期において上階生や異性が相手だとどうしても気楽に話しかけるのが難しいという気持ちは分かる。だがむしろこうした性質のひとこそ談話室においては貴重な存在で、こちらから積極的に仲良くなれるよう話しかけていかなければならない。このことは自戒でもあるし、今後寮に長くいる人へのお願いでもある。

自分の閉鎖性について
 閉鎖性という問題をここまで考えてしまうのは自分のバックグラウンドが影響していると思う。中学生になるまでに自分は4度転勤を経験した。小学校5年生になるときには5月に転校することになって、クラスにはすでにグループができていてとても大変だったが、それでもなんとかうまくやることができた。そんなこんなで当時の自分は初対面でも色んな人と仲良くなることには関してある程度自信をもっていた。しかしこの後、東大寺学園に入学したことで状況は一変する。6年間も男子校のホモソーシャルにどっぷりと浸かってしまった。tdjいる人種はほんとに限られていて、中卒はおろか高卒で就職する人も周りにはいないし、そもそも異性がいなかった。自分と似たような人間としか接することがない環境であるが、それは本当に楽しい日々ではあった。そして大学生になると逆に揺り返しとして、そんな自分に対して漠然とした不安を抱くようになった。男子校しか知らない自分が社会でやっていけるのか。どうすればいいか分からずとにかく男子校でなくなろうとして今までの自分がしなかったようなことに挑戦してみた。その頃はESSと軽音部に積極的に参加していて、留学にも行きたいなんて思っていた。色んな人と関わり、色んなことに挑戦すること大事なんて気持ちで、ひと言でいうのなら意識が高かった。ただまぁそんな自分も長くは続かなくて特に今年に入ってからはひどい有様だ(1回生のときだけ頑張るのは大学生あるあるだと思うが)。入寮してすぐのころは色んな人と仲良くなろうと必死だったし、コンパなどにもそこそこの頻度で行っていたが、3回生にもなると談話室の知り合いのみで固まるようになってしまった(マジで他ブロックの顔分からん、ヤバい)。

 ずいぶんと自分語りが長くなってしまった。要約するといろいろあっていつのまにか閉塞的で、自堕落になってしまったという話である。ただ閉塞的であることは別に必ずしも問題であるとは思わない。それは関係が密であることの証拠でもあるし、決して悪いことばかりではない。またいつのまにか留学をあきらめてしまっている自分に少し後悔はあるが、多少意識が低い生き方のほうが自分には適しているような気もしている。問題なのは閉塞的であることでも自堕落であることでもなく、「内向的」になってしまうことにある。例えば、談話室で内輪ノリをしてしまうのは問題ないがそこに新入寮生もなじめるようにする、例えば談話室で遊ぶのはよいが他のコミュニティにも参加する。談話室の閉鎖性を知ったうえで、その中毒にならないためには外交的であることが最も重要なファクターとなる。寮という特異な空間で自分がどう生きるかを考えた結論が以上だ。
誰かに一度話したが、可能であれば自分は明るい陰キャでありたい。

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