(短編)探偵と夭折の天才作家

カクヨム投稿版を一箇所にまとめました。
全部で6000字ちょいです。

   ・

 「君が雑誌とは珍しいね」

 その事件は、友人の一言から始まった。

 「何を読んでるんだい」

「いい話さ。夭折の作家の天才たるエピソード。重い病を得てこのままでは何も残せぬままと悟った未来の作家は、そのデビュー作をわずか10日で書き上げた……タイトルは『虐殺器官』。いい話だろう?」

 「それが本当ならね」

 その時の友人の興味は、さほどでないように思えた。

 数日後。
 夕方マンションへ帰ると、応接間で待ちかねた風に友人が待っていた。
 開口一番、友人は言う。

 「解けたよ。うん、解けたと言っていい」

 友人の唐突には慣れっこだが、慣れて察せる訳でもない。
 玄関脇にカバンを置き、僕は聞く。

「待ってくれ、何の話だい?」

 「速筆でならしたと言う、あの作家のデビュー作の話さ」

 ここでようやく、話が飲み込めた。

「……あの逸話が本当かどうか、分かったって言うのか?」

 友人はその問いに、直接は答えなかった。

 代わってソファに座り、テーブルを挟んだ向かい側のソファを示す。
 長くなる気配を感じ、大人しく僕は向かい側に座る。

 「そもそも、『虐殺器官』って何なんだい?」

 面食らった末、僕は何とか答えを返す。

「……小説だろう」

 「いや、作品としての完成のことさ。新人賞の応募時? 出版社に見せた時? それとも、『虐殺器官』って本が出た時かい?」

「そりゃあ、単行本が出たときじゃないか」

 「うん、改稿の機会を除けばね。だがこの作者の場合、文庫が出る前に亡くなってる。作品としての完成はだから、ほぼ最初に出たときのことと言っていい」

 ほぼと言うのは恐らく、重版時の修正を指すのだろう。
 諸々の可能性を考えた、友人らしい言い回しではある。

「……何を言ってるのか、よく分からないな」

 「いいかい、応募当時の原稿は、作品の完成とイコールじゃないんだ。君にも覚えがあるはずだ。出版社に原稿を渡す、はいそうですかと向こうはそのまま出す」

「そんな訳ないだろう。一度見せた後でもやり取りはある、必要とあれば書き直し書き足して……あっ」

 「そう、改稿がある。応募時の原稿と本とは、本来別物なんだよ。大勢がまず、ここを勘違いしてる。「10日間で書き上げた」と実際に書かれているのは初稿、つまり応募当時の原稿のことだ。あの本が10日間で書かれた訳じゃないのさ」

「でも、本当に別物だったかは分からないじゃないか……」

 「それが分かるのさ」

 テーブル端から、友人は紙一枚を取り、テーブル中央に置く。
 残された隅には、コピー紙の束が積み重なっている。
 ともあれ今は、目の前の紙を読む時だ。
 没後の対談らしきそれには、こんな旨が読み取れた。

  ――筆は早いけどメールは遅かったですね。
  ――どうやって書けたのかなと。
  ――作品には僕の方からほぼ手を入れなかったですよ。

 読むと確かに、そのままでなかったとは分かる。

 「それで、日記にはこうある」

 新たな紙の提示。
 なるほど、どうやら一筋縄ではいかないらしい。
 今度はネット上の日記、ブログのコピーだ。
 全部を写すとさすがに長くなるので、要点だけ抜き出そう。

 1・入院中は一日平均40枚の原稿を生産していました。最高80枚。
 2・入院中の今月は800枚も原稿書きました。映画も観に行けず辛い。
 3・ここ一週間で『ハーモニー』第二部まで210枚を書いた。

「一日40枚か……」

 具体的な枚数に直されるとまた、別の驚きがある。
 ひと言で表すなら、猛烈に早い。

「初稿と単行本には恐らくかなり違いがある。そうでないと仮定するなら、つまり単行本の『虐殺器官』を10日間で書けるかと問うなら、非常に厳しいとしか言いようがないね。で、これが当時の小松左京賞の応募要項だ」

 次に友人が持ち出したのは、サイト画面のコピーだ。

 【第6回小松左京賞 応募要項】
 【400字詰原稿用紙350枚以上800枚以下】

 10日間でゼロから書いたなら、最低で1日35枚を書いたことになる。

 「病院で執筆に専念して1日平均40枚の人間が、日中は勤めながらの35枚。しかもこれは最低条件だ。実際の原稿はもっと長かっただろうさ。まあ絶対に無理とは言わないがね。何かの間違いで人は空を飛ぶかも知れない、可能性だけは常に開かれている。完全に閉じられてはいない、てだけの話だけどね」

「じゃあ、最初の原稿を10日間で書いたと言うのは……」

 まるきり、嘘ということなのだろうか。

 「いや、ここからが複雑なことなのさ。何しろ作者は、ちょうど10日間で書いただなんて言ってないからね」

 作者が「10日間で書いた」とは言っていない?
 では、僕が見たあの記事は何だったのか。

「ちょっと待ってくれ、どういうことだい?」

 あっけに取られる僕の前に、友人は乱雑に、新たな紙を4枚並べる。僕が読んだものを含む、いくつもの記事。その段組みから、複数の雑誌と見当がつく。

 「図書館の本を切る訳にはいかない、コピーだけどね。こうして並べるとどうだい、何となく見えて来るだろう」

 A:わずか一ヶ月足らずで書き上げられた作品
 B:あと19日……1日あたり何枚書けばいいのかと考えた
 C:会社勤めのかたわら、『虐殺器官』をわずか10日間ほどで一気に書き上げた
 D:10日間。これが、伊藤が『虐殺器官』の執筆に要した日数だった

「……数字がバラバラじゃないか。4つ目の数字はたぶん、3つ目を参照したのだろうけど」

 それにしては、記述が妙に具体的だ。数字以外では取材が入っているのだろうか。

 「伝言ゲームさ」

 友人はそう断言する。

 「2つ目のインタビューまではいい、生前の作者が直接答えたかチェックしたはずだからね。一ヶ月未満と19日、特に矛盾はない。だが以後の3つ目と4つ目はね。正確に言えば3つ目の「10日間ほど」も、微妙な表現だが不正確とまでは言えない。何しろ、曖昧な表現だからね。だが4つ目の「10日間」、こいつは問題だ」

 なるほど、だんだん見えてきた気がする。

「曖昧さが抜け落ちた、と言う事なのかな」

 「たぶんね。10日間ほどと10日間じゃかなりの違いだ。10日間は10日間であって、7日でも14日でもないからね。もっとも、10日間ほど、の使い方にもよるが。ともあれ、これで噂は広まった」

「……いやでも、それだけじゃ弱いよ」

 伝言ゲーム。それは確かにそうなのだろう。だが、それだけでは足りない気がする。このご時世、雑誌が広く読まれるとも考えづらい。噂が広まるには何かひと押し、欠けてはいないだろうか。

「僕がこの話を聞いたのは、そんなに小説を読まない人たちからだった。あの雑誌も単に、元の話と聞いて確かめる気になっただけだ。雑誌や文庫の記事だけじゃ、そこまで広まってるとは思えない」

 「ネットと映画さ」

 友人は断言する。

 「この中で『AERA』の記事だけネットで読めるんだ。ほんの一部、抜粋だけだけどね、その記事の最後にこの記述があるのさ。わずか10日間で、てね」

 新たに2枚。その1枚めの内容は、確かに最初僕の読んでいたあの号だった。抜粋で、末尾が変わってこそいるけれど。

 2枚め、これは文庫の解説コピーを示しながら、友人は付け加える。

 「もちろん、旧版の文庫解説の影響もあるだろうけどね。ただこの記述の解説は、『虐殺器官』新装版には入ってないんだ。新装版に切り替わったのは2014年8月。一方で、この作家の映画化が始まったのは2015年10月2日、『AERA』記事のネット公開は2015年の10月31日だ。タイミングとしてはだから、ネットの方の影響だよ」

 あらためて、「ネットの方」のコピーを見る。

『10日間。これが、伊藤が『虐殺器官』の執筆に要した日数だった。転移発覚の翌月に肺の一部を切除し、約9カ月間抗がん剤治療を続け、寛解した06年5月に一気に書き上げた』

 これを末尾に持って来られては、確かに印象に残ることだろう。

「でも、本当に10日間で書き上げるほど速かった、てことは……」

 「それは無いね」

 今度のそれは、切り抜きではなかった。

 日記形式の文章、どうやらブログの抜粋と思しい。

 1・入院中は一日平均40枚の原稿を生産していました。最高で80枚。
 2・入院中の今月は800枚も原稿書きました。映画も観に行けず辛い。
 3・ここ一週間で『ハーモニー』第二部まで210枚を書いた。

「……さっきと同じ奴じゃないか」

 「今度はもっと、数字に着目して欲しいね」

 入院中に平均1日40枚、最高で80枚。一ヶ月では800枚。
 通常、作家は1日に20枚書ければ相当早いほうだ。
 やはりと言うべきか、尋常な早さではない。

「早いのは分かるけど」

 「そう、確かに早い。さっきの対談でも出てきたし、速筆というのは有名だったようだ。その下地があったからこそ、「初稿を10日間で書き上げた」なんて噂も通る」

「この、執筆速度が嘘って可能性はないのかい?」

 「ほとんどないね。大抵の場合、嘘ってのは辻褄に苦労するんだ。最初に嘘をひとつつく、すると2つ目以降はそれに沿って話をすることになる。一度でも忘れたらそこで終わりだ。嘘に嘘を積み重ねる、これには特殊な才能がいるんだよ」

「他人しか見ない日記なら、それもあるんじゃないか?」

 ここで友人は、3つ目の記述を指差す。

 「この内ひとつは、本来身内が見る類の日記なんだ。全体公開だったんで僕でも拾えたがね、当時は己の進退をほぼ自覚した状況だったはずだ。ねえ君、この作家はこういう時、わざわざ緻密な嘘を書くのかい?」

 迫りくる結末を自覚した作家の、身内向けの日記。
 この作家なら、果たしてどう考えただろう。

「……いや、嘘は書かないな」

 それはたぶん、ほとんどの人間がそうなのだろうけど。
 得たりと言わんばかりに、友人は続ける。

 「つまり、10日間では不可能なんだ。ところが、何度も言うが、当の作家自身はそんなことを言っていない。ここに、今回の錯綜があったのさ。もう一度、4枚のこの紙を見てくれ。」

 A:わずか一ヶ月足らずで書き上げられた作品
 B:あと19日……1日あたり何枚書けばいいのかと考えた
 C:会社勤めのかたわら、『虐殺器官』をわずか10日間ほどで一気に書き上げた
 D:10日間。これが、伊藤が『虐殺器官』の執筆に要した日数だった

 「こちらでは具体的に19日。10日からほぼ倍だ。応募条件の350枚以上を19日なら、1日18枚と少しで済む。もっともこれは最低限の数字だね、後で説明するがもう少し多かったかも知れない」

「……いろいろと絡み合ってた、て訳か」

 「事実と不正確と、伝言ゲームの仕業だね。作家の方に嘘があった訳じゃない。『虐殺器官』を短期間で書き上げたのは本当だろう、ただその期間で書き上げたのと、その期間で全部書いたのとはイコールじゃない」

「……まだ何かあるのかい?」

 「プロトタイプだよ」

 新たに示された紙束。と言っても、せいぜい十数枚だろうか。

 「見てみてくれ」

「う、うん」

『Heavenscape』と題されたサイトのコピーは、明らかに小説の原稿だった。
 日付は、2004年5月。
『虐殺器官』初稿の完成、2006年5月の2年前だ。
 ただその分量は、いかにも長編に足りていない。

 「未完だけどね」

「もう少し見てもいいかい?」

 「ああ」

 さっと見ながら、その原稿をめくる。
 これはまさに、ほとんど作品のプロローグだった。
 細部こそ違えど、『虐殺器官』冒頭と比べて大きな差は見られない。
 ある一点を除いては。

「これ、名前の雰囲気がちょっと違うけど……」

 「そう、固有名詞が違う。リトル・ジョンにギリアン・シード、これはゲーム『スナッチャー』の登場人物名だよ。このルーシャスは、作家が書いてた同人誌の主人公さ」

「二次創作、か……」

 「この時点ではね」

『虐殺器官』冒頭と酷似したプロローグ。
 これを転用したなら、確かに書くべき枚数は減るだろう。

 「お疲れ様と言うべきかな、まあ、この日記で最後だよ」

 気づくと、資料らしきものは残り1枚になっていた。
 友人はそれを、散らばった紙の上に置く。
 最後の1枚には、わずか1文しかない。

・06-29, 2006 ストロスの『シンギュラリティ・スカイ』、新書の『行動経済学』を買う。

 何と言うことのない記述。少なくとも僕にはそう見える。

「このタイトルの小説……かな、これに何か秘密が?」

 「いやそうじゃない、重要なのはこの、「新書の『行動経済学』」の方さ」

「単なる入門書じゃないか。何かあるようには思えないな」

 「そう、入門書だよ。そして入門書の名前なのが、まさに重要なのさ。君は入門書を、いつ手に取る? その分野を熟知した後でかい?」

「そりゃ一番最初に取るよ」

 「そうだろう。つまり、この分野の内容を拾い出したのが2006年6月、『虐殺器官』を投稿した後だったんだよ。作中には虐殺の文法という、行動経済学を踏まえたネタがあるだろう。その裏打ちが恐らく、初稿の時点では弱かった。投稿直後の読書でパーツが見つかり、改稿でその穴が埋まった。おそらくこんな所じゃないかな」

 見ているものが違う、そう思わされた。
 わずか一行から、これだけの論理を導けるとは。

 「本当に書くべき長さはだから、単行本とはずいぶん違っていただろうね。まず初稿は、単行本の730枚よりかなり短かかった。「10日間で」は伝言ゲームで実際は「19日」。それ以前に書かれていた原稿も最低44枚分ある、この44枚はそう直さなくていい」

「なるほど、最高でも680枚という訳か。仮に3割が後で書き足されたとして……」

 476枚を19日、つまり1日に25枚ほど。
 これなら確かに、かなり現実的な量だ。
 1日73枚を10日間続けるよりは。

 「不可能じゃないペースだろう?」

「あ、ああ……」

 「後は推論になるけど、このプロローグの出来はかなりいい。応募までの2年、ほそぼそと書き継いでもいたんじゃないかな。何百枚とは言わない。ここからほんの100枚あれば、1日20枚も書かなくて済む。いっそう現実的だ。他に何かあるかい?」

「い、いや……」

 あっけにとられつつ、僕は複雑な思いだった。
 数日前。友人はたぶん、この作家を知らなかった。
 なのに友人は、その噂の実態を推理してみせた。
 誰よりも入念に、作家のことを調べ上げて。
 そのことに僕は、少しだけ嫉妬していた。

「……ねえ」

 「うん?」

「その、僕が消えたとしてさ」

 「失踪の相談かい?」

「いや、つまり人生を終えて、天に昇ったとしてさ……君はこれに費やした位の手間でもって、弔ってくれるかな」

 不意をつかれた、と言った沈黙。
 それでも、5秒はかからなかったと思う。

 「仮定の話に意味はないね」

 珍しく間を置いた、少し言いかねた口調。
 これはこれで、不思議と悪くはない気分だった。

 「今回のこれは、まあちょっとした事件ではあったかな。さて、解いたとなるとお腹が減ったよ、君は今から何か買いに行くのかい。行くなら、パンと紅茶を買って来てくれ。いまちょうど切らしてもいるからね。この事件のあらましを書けば、代金の足し位にはなるだろう?」   (了)


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