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「譲れぬ一線」

地球は温暖化しているのだろうか?これは「スケール」によって変わるとも言えるのか?ただそのスケールは数万年という単位だとしたら、ヒトにとっては「考えても仕方ない」話になってくる。地球史的には氷期と間氷期が周期的に繰り返されてきたらしい。地球のバイオリズムはデカすぎて、それを人間界の日常的なあれこれに適用することはほぼ、意味がないのかもしれない。

近年の温暖化は自然のバイオリズムというより、人為的な副産物として温暖化が促進されたというのが、信憑性が高いのだろう。まあ、定住化と産業革命の副作用か。

「日本の中世社会に関していえば、贈与経済の影響をこうむって変質したというようり、共通の功利主義的精神が、一方で贈与経済の領域に、他方で市場経済の領域に並行的な進化をもたらしたと考えた方が実態に近いように思える。危機はどちらにしても訪れたが、危機が去ると贈与経済のほうだけが袋小路に入った。贈与経済と市場経済と功利主義の三者は100年の蜜月をともにすごしたのち、贈与経済だけがそこから身を引いたのである。贈与には、それを越えられると贈与であることをやめざるをえなくなるような「譲れぬ一線」というものがあって、それが最後の最後のところで功利主義との訣別を避けがたいものにしたのだろう。この「譲れぬ一線」をもつか否かが、要するに贈与経済と市場経済とを分かつ決定的な違いとなるわけである。」                     『贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ』桜井英治 P134  中公新書

贈与は送ったものと返すものの価値が「釣り合う」ことに繊細な注意を払うという。日常的な場面を考えてもそうだ。誕生日プレゼントをもらって、相手の誕生日に自分がもらったものの数倍の値段のものはあげない。なんとなく「だいたい同じくらいの値段」のものを選ぶ。あるいは少しだけ高いとか。この感覚が贈与的なエッセンスなんだろうか。対して、市場原理は確かに「等価交換」という側面があるが、等価では循環は停止してしまう。反対給付の義務感が無い。「お返ししなきゃ」という負債感が生まれない。その負債かんが無いのも市場原理の気軽さでもあるのだろうが、循環を生むために市場原理はどんな「働きかけ」をしたか。それは経済学でいろいろあるんだろう。贈与経済は放っておいても発電するようなもので、市場原理は意図的に常に働きかけ(薪をくべたり、制御室であれこり管理したり)を必要とする。だから、日本銀行やらがいる。(それが現在、適切に機能しているかは別として)

文化変容という話を『野生の思考』や『贈与論』や中沢新一を読むようになるよりはるか前に大学の1年で必修ばかりの中で数少ない「自由」に取れる講義が文化人類学入門だった。そこで西洋文明がブッシュマンたちの社会に浸透していくと堕落的になっていくというエピソードだった気がする。まさに「侵食」という感じだ。徐々にあるいは、急速に内部から骨抜きになっていくイメージ。

市場経済(コーラやタバコ、その他文明の利器)が贈与経済を侵食していくとも見える。が、遊びなれたプレーボーイと箱入り娘の明暗はっきりした対比には必ずしもならないのでは?と筆者は言う。

ブッシュマンのように文字を持たずに少数で移動しながら暮らす場合、定住した場合、その定住化後のそれぞれの地域で辿った文脈によって「市場原理」と「贈与原理」は比率を変えながら現在まで続いているのだろうか?料理や酒などのようにアルコール度数みたいに。酒は、味がわからないので全然詳しく無いが、分量の差で味が変わったり、酒の名前が変わったり一見、別物のようになるが、ただ単位成分の比率だったりする。緑茶と烏龍茶や紅茶みたいに。

日本中世についていうと、市場原理と贈与原理がうまいこと並列していたのだろう。ガソリン車と電気自動車が現在、同時に並列的に販売されているように。あるいはハイブリッド車のように。しかし、代々の時期において、50:50のように綺麗に並列していることは少なく、時代を追うごとに市場原理の割合が大きくなって今に至ると・・・。それで「あれ、ちょっと比率おかしいな」と勘づきはじめてるのかもしれない。市場9;贈与1くらいに偏ってるなあと。何事も程度問題、バランスなんだろう。フォースはバランスが大事。

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