アーティストとは、ゼロからイチを作る人ではなく、ゼロを発見できる人。

最近、もやもやしていたことがある。

3年前、アーティストとして生きると宣言した。それ以来、それまでのすべての仕事を手放し、その通りに生きることに挑戦してきた。しかし最近、自分自身が、当時想像していたアーティスト像と異なってきていることを感じていた。

昨年の夏くらいからこの1年間は、本当に色んなものを作った。モノづくりなど挑戦したことがなかってにもかかわらず、センシング、ハードウェア、作品、その環境にあったインスタレーションに没頭した。いわゆる、アーティスト像に近い生活をしていたように思う。それは、7月末まで続いた。

しかし、そこから僕は、自分の手で、作品を今までのようには作っていないのである。周りの才能あふれた人たちが、手を動かし、作品を作っていく。僕は、それを一人目の鑑賞者として眺めている感覚に近い。当然、その一連の生まれてきたものを芸術体験に昇華させることは僕の役割だけれども、具体的に何かを創り出していないのだ。

一方、僕が元々持っていたアーティストのイメージは、画家・音楽家・彫刻家すべて、自分の手で「作品」を作っている人のことを指していた。ゼロからイチを生み出している人と言えるかもしれない。

しかし、僕はそうでない。そうして、アーティストとは何者なのか。芸術家とは何者なのか。そんな問いが頭に浮かぶようになった。はっきりいって、こんな問いに意味がないことは分かっている。その概念に自分を当てはめる必然性も一切ない。けれど、ぼく自身が宣言していたものと違うものになっているかもしれない、ということにただ漠然とした不安が存在するだけだ。

そんな話を、尊敬する画家の友人にした。そうしたら、彼なりのアーティストの定義を教えてくれた。

「ゼロからイチを作るのがアーティストだ、と言われることがあるけど、違うと思うんだ。」

「アーティストとは、ゼロを発見できる人のことなんだよ。」

これを聞いた瞬間、スッパーンと、銃で身体を打たれた感覚がした。もうその通りだ。そうなんだよ。それでしかないんだよ。それが言いたかった。なんて凄い表現を教えてもらったんだろう。
(ここから、アーティストを芸術家、と表現し直す)

芸術家として生きるとは、世の中の人が思う芸術家像に自分を当てはめて生きる、という意味ではない。自分にとっての、芸術家を目指す、という意味だ。

ゼロを発見できる人。そう考えたときに、芸術家が芸術家たりえるための一つの本質とは、現実への眼差しなのだろう。モノも情報も溢れているこの世界の中で、静寂を見つけられる人。そこの奥にある「ゼロ」を発見できる人。ゼロとは何だ、そう問われても、言葉では表現できないけれど、それを見つけた時にはそれだとしかいいようのないものなのだろう。

芸術家は、混沌とした世界の中に静寂を見つける眼を持っている。その眼は、結果的に "作品" と呼ばれるものを生み出し、それが人の心を揺さぶってしまうのだろう。ぼくは、これからも、やっぱり、芸術家として生きていきたい。そう思わせてくれた、友人からの言葉だった。

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