境界。何かと何かの境目について。

なんといいますか。

ここ数ヶ月、外からは見えないと思うのですが、ぼくの中では大きな変化が起きている気がします。うまく表現できないのですが、今まで漠と感じていた事象が繋がり始めているというか。別々の体験が統合され、新しい世界観の中に生き始めているというか。いや、正しく言うと、生きている世界は何も変わっていないけれども、自分の認知が変わり「世界観」が変化した、という感じかもしれません。

僕は4〜5年位のスパンで「破壊」と「創造」を繰り返しているのですが、数年前に「破壊」が終わり、去年くらいから「創造」が始まり、数ヶ月位前からそれらが「統合」されてきた印象です。自分で書いてから気付きましたが、「破壊」と「創造」に「統合」も付け加えたほうがいいかもですね。

そのうちの一つ。

境界について。境界の境は「さかいめ」のこと。何かと何かを分かつもの。自分と他人、地域と地域、組織と組織、人間と動物(非人間という意味)、生物と無生物、地球と宇宙(地球外という意味)。僕たちはいろんな「境目」を持っています。

これらの境目って、ずっと非常に明確なものだと思っていました。が、この境目って実はあるようでないんじゃないかなぁという気がしてきました。

例えば。「私」と「外の空気」について。次の文章は、「いのちの中にある地球(デイヴィッド・スズキ)」からの引用です。

肺にはおよそ3億個の肺胞があります。この極小の袋を覆う3層構造の膜は、表面張力を弱める界面活性作用をもち、吸い込まれた空気が張り付きやすいようになっています。酸素を含むこの空気は、血液に取り込まれ、赤血球中のヘモグロビンに拾われて、心臓の鼓動の一拍ごとに体のすみずみへと運ばれていきます。私たちが大きく息を吐きだしたときでも、吸い込んだ空気の半分ほどはいつも肺のなかに残ります。さもないと肺はつぶれてしまいます。

つまりこういうことです。空気はいつも肺の中に、そして血管を通じて体中に浸透し、融合していて、ここまでが空気で、ここから先が体、というふうに区別できない。空気と「私」とを分かつ境界線は存在しないのです。こういってもいいでしょう。私たちは空気なのだ、と。

常に人間は外部のエネルギーを、「呼吸」「食」を通して体内に取り込み、不要なものを排出しています。自分の身体は不変に見えますが、細胞は5〜7年ですべて入れ替わると言われているわけですね。そしてその細胞は外からのエネルギーでできていく。となると、どの瞬間から「空気」「食」が自分の体になるんだろう。

きっとその「瞬間」なんてないんだろうなぁ。じわじわ「私」になっていっているんだろうなと思い始めたわけです。

次に。人間とその動物(人間以外)も境目がないのかもしれません。人間は、「世代を超えた家族」を強く大切にする特徴があります。でも、進化をずーっとたどっていくと400万年前に人間と類人猿の差は曖昧になり、1億6000万年前までいくと哺乳類とそれ以外の差は曖昧になり、6億年前までたどると生命と生命以外の物質の差が曖昧になります。

更に。宇宙(地球外)と地球の境目。外から見ると青い地球はそれ以外の真っ黒な宇宙と分かれているように見えます。しかし、実際は大気密度が少しずつ減少してどこかで宇宙と呼ばれる場所にたどり着きます。

ここで気づきました。人間が「境目」と認識しているものは、実際に「境」が存在しているのではなく、人間が「認知」のために定義したものに過ぎないんですよね。先人たちが知恵を絞って、整理してくれたものを、なぜか真実であるように捉えてしまう。人間って不思議ですね。

だからなんだ、ということではないのですが。そんなことを考えた、朝一、布団の中の思考でした。

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