2021/12/06


 今日は疲れた、とくに疲れた、トラブルがたくさんあったし、忙しかったし、忙しいときこそトラブって、とにかく忙しかったし、心がしんどかった、肉体疲労より、怒鳴っている人とかもいて心臓がずっとドキドキしてて、心の疲労というより心臓の疲労なのは分かっているんだけどとにかく疲れて、今日の心のオアシスは、昼休みに読んだ『猫と庄造と二人のおんな』だった。今日はそれを引用して終わる。

うそ云いなさい、あんた始めからリリーに食べさそう思うて、好きでもないもん好きや云うてるねんやろ。あんた、わてより猫が大事やねんなあ。」
「ま、ようそんなこと。⋯⋯⋯」
仰山ぎょうさんに、吐き出すようにそう云ったけれど、今の一言ですっかりしおれた形だった。
「そんなら、わての方が大事やのん?」
「きまってるやないか! 阿呆あほらしなって来るわ、ほんまに!」
「口でばっかりそない云わんと、証拠見せてエな。そやないと、あんたみたいなもん信用せエへん。」
「もら明日から鰺買うのんめにしょう、な、そしたら文句ないねんやろ。」
「それより何より、リリー遣ってしまいなはれ。あの猫いんようになったら一番ええねん。」
(谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のおんな』新潮文庫、pp.20-21)

 ここは昼休みに車の中で3回ぐらい音読した。「噓云いなさい」と「あんたみたいなもん」と「遣ってしまいなはれ」がいい。

(…)今度自分が後釜あとがまへ直ってみると、自分は品子と同じ扱いを受ける訳でもなく、大切にされていることは分っていながら、どうも品子を笑えない気持になって来るのが不思議であった。それと云うのは、庄造の猫好きが普通の猫好きのたぐいではなくて、度を越えているせいなのである。実際、可愛がるのもいいけれども、一匹の魚を(しかも女房の見ている前で!)口移しにして、引張り合ったりするなどは、あまり遠慮がなさすぎる。それから晩の御飯の時に割り込んで来られることも、正直のところは愉快でなかった。夜は姑が気をかして、自分だけ先に食事を済まして二階へ上ってくれるのだから、福子にしてみればゆっくり水入らずを楽しみたいのに、そこへ猫這入はいって来て亭主を横取りしてしまう。好いあんばいに今夜は姿が見えないなと思うと、チャブ台の脚を開く音、皿小鉢さはこばちのカチャンと云う音を聞いたらぐ何処かから帰って来る。たまに帰らないことがあると、しからないのは庄造で、「リリー」「リリー」と大きな声で呼ぶ。帰って来るまでは何度でも、二階へ上ったり、裏口へまわったり、往来へ出たりして呼び立てる。今に帰るだろうから一杯飲んでいらっしゃいと、彼女がお銚子を取り上げても、モジモジしていて落ち着いてくれない。そう云う場合、彼の頭はリリーのことで一杯になっていて、女房がどう思うかなどと、ちょっとも考えてみないらしい。それにもう一つ愉快でないのは、寝る時にも割り込んで来ることである。庄造は今迄猫を三匹飼ったが、蚊帳かやをくぐることを知っているのはリリーだけだ、全くリリーは悧巧りこうだと云う。成る程、見ていると、ぴったり頭を畳へ擦り付けて、するすると裾をくぐり抜けて這入る。そして大概は庄造の布団ふとんそばで眠るけれども、寒くなれば布団の上へ乗るようになり、しまいにはまくらの方から、蚊帳をくぐるのと同じ要領で夜具の隙間すきまへもぐり込んで来ると云う。そんな風だから、この猫にだけは夫婦の秘密を見られてしまっているのである。
(同上、pp.23-25)

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