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時間に対する「耐性低下」と「思考スタイル」の関係

「インプットとアウトプットの黄金比は3:7なんですって!」と、文学Youtuberのベルさんが言っていた。アウトプット最盛期の今、猫も杓子もアウトプットというわけで、他人様のアウトプットを目にする機会がぐんと増えた。Youtubeにも個性・才能はたまた異能(笑)溢れる方々が登場し、「皆同じ」が礼賛される日本でも、個性はきちんと育まれているんだなぁと妙に安心したりする。

Youtubeを見る時間が飛躍的に増えていったのと並行して、自分の中ではある違和感が大きくなっている。それは時間に対する「耐性の低下」だ。Youtubeの動画は短い。数分のものが大多数であり、反面、詰め込まれる情報は少なくない。演者がやたら早口であったり、場面の切り替えが多かったり、中身をはしょって一気に結果に飛んだり、つまり刺激的なつくりになっている。そうでなければ最後まで見てもらえない。

Youtubeより短いものもある。GIF動画は3秒、TikTokは同じく3秒から1分以下。Twitterに流れてくる動画も1分に満たないものが多い。ユーザーは始めの8秒でその動画を見続けるかどうかを決めるといったマイクロソフトの調査結果を目にしたことがある。たったの8秒である!

こうした動画の大量視聴により、私は間違いなく以前より「せっかち」になった。1分ほどの動画でさえ長く感じたりすることがある。これは以前にはなかった感覚だ。簡単に離脱できるから、動画から動画へとひらひら飛び回るネットサーフィンならぬ「動画サーフィン」をよくする。「この動画はいまいち」という判断は、瞬間的であり感覚的であり反応的なもので、そこに「考えること」は介在しない。

私にとって動画を見るのは単なる娯楽だから、動画に関してはこれでいいのかもしれない。ひとつだけ気になるのは、このような「耐性の欠如」が自分の「思考スタイル」に影響を及ぼしかねないということである。

じっくり考えるのは労力がいるし、疲れる。逆に瞬間的・感覚的な反応は手っ取り早いし、問題をひきずらないし、さっと黒白つけて先に進めるので気持ちがよい。「質よりもとりあえずのスピード」「サクサクと処理する」が良しとされる昨今の感覚にも合致する。

しかしながら、私達が住む現実は、瞬間的・感覚的・反応的に処理できない問題であふれている。例えば、先日米アラバマ州で成立した中絶禁止法。これはレイプや近親相姦による妊娠でも中絶は認めないという全米で最も厳しいものとなった。中絶を認めるか認めないかは、人としての権利と生き方に関わる問題であり、議論が絶えない問題のひとつでもある。

他にも、差別、移民受けいれ、同性結婚、単一親権、生活保護、死ぬ権利、年金問題など、単純に判断を下せない問題は社会のあちらこちらに転がっている。

以前書いた上のnoteでも言及したが、「この問題の答えはこう」とはっきり言いきれる人が羨ましい。そういった類の人達は、一種のカリスマ的な魅力があるのも否めない。

生活が大変で「じっくり考える」という精神的余裕がない時、あるいは孤独の重みに耐えがたい時、盲目的に誰かを、あるいは何かを支持するのは一石二鳥なのかもしれない。ある意見を熱狂的に支持するグループに属することで、ある程度の孤独は解消され、「じっくり考える」ことからも解放される上、ちっぽけな己の正義感も満たされる。

知らず知らずのうちに身についた時間に対する「耐性の低下」が、多くの現代人の「思考スタイル」にそれなりの影響を与えていると考えるのは、考え過ぎだろうか。物事を自分の頭で「じっくり考える」忍耐力を失い、代わりに誰かの主張をうのみにした結果、自分たち以外の主張は「悪であり、敵である」と決めつけてはいやしないか。昨今特に目につく「誰かを、あるいは何かを盲目的に支持する団体」の度を超した言動を見聞きするたびに、そんな思いが胸をかすめる。



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