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苦しみを理解できずとも、そっと「より添う」想像力を

久しぶりに3人のママ友とお茶した。みな子供が同じ小学校に通っていたこともあり、数年前までは会話する機会がもう少し多かったのだが、ここ2年ほどはつかず離れずの距離を保っている。知り合ってからはもう10年近くになるだろうか。3人とも頼りになるママ友で、学校関係の情報をもらったり、スーツを借りたり、学校での子供の様子を教えてもらったり、なにかとお世話になってきた。

うつについて特に詳しく話したわけではないが、3人のうちの2人は、ぽつぽつとあった過去のやりとりから、しばらく働いていない私の状況を察していただろうと思う。人に会うエネルギーもなかったし、とにかく面倒くささが先にたって誰かに会いたいという気持ちにもならなかったので、ここ2年ぐらいほとんど人と会ってこなかった。行くかどうか迷ったのだが、今回はえいっとばかりに重い腰をあげて約束した(約束の時間直前まで、ドタキャンしそうな自分がいたのをここに告白する)。

そこにタイミングよくこんなツイートが。

さくらセンセイのこのツイートと、♡をくれた方々に背中を押されてさらっと自己開示してみたわけだが、結果は特に反応なし、といったところだった。まぁ、詳細を話していないのだから、私がどんなに苦しい思いをして、長い長い時間をかけてここまで這い上がってきたかはわからなくて当然だろう。note やradiotalkで発信していることを話しても、特段興味もなさそうな感じで素通りしていった。

彼女たちを冷たいとは思わない。むしろ親切な人たちだと思っている。踏み込んじゃいけないという心理も働いただろう。しかし、「当事者じゃないと共有できない思い」というのがあることを私は実感した。同じ地域に住んでいる彼女たちは物理的には近いけれど、今の私には、Twitterで触れ合う見知らぬ当事者の方たちのほうがずっとずっと心理的な距離は近い。そのことを痛感した。

現実というのはこんなものなのだろう。人生においてそれぞれ背負っているものがある。みな自分の人生に必死だ。表面には現れてこなくても、水面下では必死に水をかいているのだ。だから、勇気をだして自己開示したからって「私の気持ちをわかってくれ」とは言わない。

ただ、自分は、自分の体験していない困難に直面している人に対して、その人の「苦しみ」や「生きづらさ」に思いを馳せることだけは忘れないでいたい。その人の気持ちをすべて理解できずとも、その人の抱えている「苦しみ」や「生きづらさ」に少しでもより添える想像力を常にもちあわせている存在でありたいと心に刻む。

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~「寛解」は、元に戻るのではなく、新しい自分の創造~  異文化の波間に漂う日常から得る気づきを発信。日英ライティング、コラム、エッセイ、翻訳(意訳)のお仕事依頼は、Twitter DMより承ります。
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