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「悲し」の感情は「愛し」と共に。

今年はコロナ禍でたくさん悲しいことがありました。

会って話したいのに会えなくなってしまった。マスクで人の表情が分からずお互いの感情を交わせているのかわかりにくくなってしまった。オンラインのために同じ空間を共有できないまま必要なことだけを話して終わることが多くなってしまった。レジや受付でお互いの身体が少しでも触れることを申し訳なく思うようになってしまった。

コロナ以前では当たり前のように経験していたことが、できなくなってしまった。だから、本当に2020年が今日で終わってしまうのか今でも信じられないでいるのでしょう。

ただ、どうしてそう信じられないでいるのかについてはよくわかっていないままでした。確かに悲しいことがたくさんあったけれども、幸いにも身体は無事ですし、新しい生活様式も習慣化してそれなりに生活はできているのにもかかわらず。

しかし哲学者の九鬼修造の著書「いきの構造」で次のような文に出会って、それがわかったような気がします。

愛が愛情として、愛するものの背後に、その消滅を予見する限り、愛は純粋な「嬉しい」感情ではなく、「悲しい」感情をも薬味として交えた一種の全体感情である。「愛(かな)し」という全体感情の中に「悲し」という部分感情が含まれているのである。


大切な何かを喪失してしまった時に「悲しみ」に包まれるのは、その何かに対して抱いていた「愛し」という全体感情の中にあった「悲し」という部分感情が大きくなったからなのでしょう。

これを読んだ時、私は、当たり前のように経験していたことは、実は「愛し」の対象であったのだと気づかされました。

人に会って話をする、お互いの感情を分かち合う、同じ空間を共有する、などの何気ない日常の場面。これらがその対象だったのですが、あまりにも当たり前すぎてわからなかったのです。

「悲し」の感情は、喪失してから初めて現れるのではなく、「愛し」の対象として自分の中に内在していた時からすでに共にあったということ。そして、その対象に「愛し」の感情を持って係われているうちは、当たり前すぎて「愛し」の感情を持っていることを忘れてしまうこと。だから喪失して初めて実は「愛し」の対象であったことを「悲し」の感情によって気づかされた、ということになります。

今年は、このことを何度も深く噛みしめた1年でした。来年もまたコロナ禍が続くでしょう。しかし、そのなかで自分の内に起こる「悲し」の感情を疎ましく思うのではなく、その感情の背景にある「愛し」の対象を深く大切に感じられるようにしたいと思います。