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「障害」の話。

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私たちの生きにくさを作り出しているのは何?

私たち聴覚障害当事者は、聴者が多数の社会で生きていると、日常生活、学校、職場などあらゆるところで何らかの生きにくさを覚えることがありますよね。そうした生きにくさを作り出しているのは何でしょう。聴者でしょうか。しかし聴者であっても私たち聴覚障害当事者に対する考えや価値は一様ではありませんね。 私たちが感じている生きにくさは、聴覚障害から来るものではなく、私たちが持っている考えや価値を包括できない多数の聴者の考えや価値から来るものではないかと感じています。 それでは、その聴者

読唇×聴覚障害当事者研究。

読唇とは、専門家によれば、「口唇運動パタンを読み取り、発話内容を推測すること」であるという。 口唇運動パタンは、日本語の場合、母音の開き具合と、発音時の口形の変化の組み合わせで、下図のように15パタンがあることを示すことができる。 例えば、3音節で構成される単語の口唇運動パタンの組み合わせが、⑥-⑪-③であれば、「たーまーご」、「たーばーこ」、「なーまーこ」のように同形異義語が何通りが出てくるわけである。 組み合わせによっては、10通り以上ものの同形異義語が出てくること

聴覚障害×当事者研究の話。

2018年9月9日(日)。宮城教育大学のある青葉山では朝から小雨が優しく降り注いでいた。この日は日本初の開催となる「聴覚障害当事者研究シンポジウム2018」。 シンポジウム当日は、講師、実行委員、参加者などあわせて総勢約100名近く集まり、予想を超える大好評。聴覚障害分野でも「当事者研究」ができるのではないか、必要ではないかと共有できる機会になった。 ところで、「聴覚障害当事者研究」とは一体何だろうか。聴覚障害分野で聴覚障害のある本人が研究するイメージがあるかもしれないが

障害のある人同士の「差別」から学ぶ。

 これは私が高校時代に経験したことです。  当時、私は県立高校に在籍しており、クラス委員長を担当したりサッカー部に所属して活動していました。そのことを聞いた地元の聾学校の生徒が、私と話してみたいということで高校に来てくれました。  彼は日本手話で育ち、私は音声日本語で育ったので、同行した聾学校の先生が手話通訳を担当してくれました。授業参観の後で私と約1時間半ほど対談したのですが、彼にとっては思わぬ方向に向かってしまい、しまいには「差別されている」と感じてしまうほど落ち込む

障害は「不便」?「不幸」?

A handicap is inconvenient, is not a misfortune, though. これは、誰もが知るヘレン・ケラーの名言。和訳は「障害は不便ですが、不幸ではありません」。 この名言は、良くも悪くも障害当事者が自分はいかに生きていくのかについて語ることを支配する言説になっているように思います。障害は不幸ではない、ただ不便なだけだ、それでいいんじゃないか、というふうに。現在もあちこちでこの名言を引用して自分の経験を意味づけて語る様子が見られます

より拾い、より拾われる関係へ-見えない日本手話-

聴覚障害に加えて、脳性まひなどいわゆる運動障害のために手を自分の思い通りに動かせない子どもと係わることがあります。その中には手話で話す子どももいます。 手話はこういうものだと型にはめ、それにこだわる立場の者は、そうした子どもの手話をわかりにくいとか間違っているとかそういうふうにみなすかもしれませんが、私はそう思いません。どのような表現が「フツー」なのか「ヘン」なのかとも思いません。むしろ誰も教えていないのに、子どもが自分なりの「秩序」を作って発信している姿に出会って、「こと

ある子どもの「自己調整」の物語。

ろう学校で幼児たちが先生の話を聞くために集まっている時。 そこに、聴覚障害に加えてADHDの傾向があるのでは?と言われている一人の幼児がいました。 彼は、最初、先生の話に集中して聞きますが、やがて集中が切れたのか、部屋にある全く動かないものに目を移します。壁に貼ってある掲示物を見たり、天井を見たり。これらを一つひとつ数秒ほど見ます。そして突然椅子から立ち上がって廊下へ一心不乱に走り出して行きます。 そういうことを度々繰り返しているとのことです。 さて、学校コンサルテー

「意思表明」とは何か、という話。

障害者差別解消法では、社会的障壁を除去し、合理的配慮を提供するために、「障害者の意思表明」が必要であると規定しています。 私も当事者としてこれまで様々な場面で意思表明していますし、障害のある子どもや青年が意思表明できるようになるための支援の研究や実践にも取り組んでいます。 ところで、冒頭の規定内容が広く認知されてきているなかで、障害当事者の中には、職場や社会等に対してうまく意思を表明できないから権利を行使する能力が足りないのかなと思い込んで嘆いたりする方々が続出しているよ

「ニーズ」を捉える「ものさし」の話。

「ニーズ」は、要求や需要と同じような意味で使われることが多いようです。本来は、人が生きる上で何かをしたいことがあり、しかしそれができず充足できない状態になった時に現れてくるもの、と考えていいと思います。 「ニーズ」が出てきた時に、それがその人が単独でできないことならば、手助けをする人が必要になってきます。ここで問題になるのは、その手助けをする人の「ものさし」のありかたです。 「ニーズ」は、何かをしたいがそれができないでいる人が求めている「イメージ」と、その人を手助けする立

「信頼の履歴」の話。

聴覚障害だけでなくダウン症、自閉症スペクトラム、脳性麻痺、ろう重複障害、重度重複障害など様々な障害を有する子どもたちに出会って、子ども自身が自身の関心ある活動を展開できるように必要な「輔け」をする。また、親御さんや学校教員等にも必要な「輔け」を伝えて、親御さんや学校教員等との関係も形成できるように係わる。 それが「教育」に関わる私の仕事になっている。そうした仕事の中で、子どもたちから「信頼」に関して思いもよらぬことをしてくれることがある。特に、いわゆる言語をまだ持っていなく

「新しい傷」の話。

聴覚障害関係の専門書を読むと、「聴覚障害は、コミュニケーション障害でもある」と、まるで聴覚障害がある側のみに生じる障害として語られている文章にであいます。まるで「聴覚障害がないことはコミュニケーション障害でもある」という事柄がないかのような語り方です。それは「コミュニケーション不全」に関する語りでも同様のことが言えます。 このような語り方は、読者に、聴覚障害当事者にはコミュニケーション障害/不全に陥り、聴覚障害がない者は陥らないかのようなまなざしを生成する可能性があります。

「ロールモデル/スティグマの対象」の話。

かつて聴覚障害児を持つ親や教育関係者の方々は、私のことを「聴覚口話法に失敗した人」「健聴者モデルに近づけられなかった人」と評価していました。また、学校教員の方々からも、当事者教員の早急の確保が必要であるなかで私はあえて大学院進学の道を選んだため、「聴覚障害のある子どもの気持ちがわからない人」「聴覚障害教育を真剣に考えていない人」などとご批判をいただきました。 しかし最近は、そうしたスティグマを張られることは少なくなり、むしろ成功例であるかのようにみなされることが多くなりまし

「情報保障」を考えるということ。

ある大学の授業での話です。 その授業は約10名の3年次学生が受講しており、各受講生が今後の卒業研究に向けて関心のあるテーマの論文を紹介してディスカッションするというものでした。聴覚障害のある学生も複数名参加していました。全員1年次から同じ専攻に所属しています。私はいわゆる助言者として出席。 その中で、情報保障支援に関わっている学生が、高等教育機関における情報保障の実態調査に関する論文を紹介する場面がありました。手話ができない学生もいるので、ディスカッションできるように情報

障害の新たな「社会モデル」の話。

大学が障害学生支援で「障害」というものをどのように捉えて障害学生と係わるのかを考えた時に、相互対立的に布置されている医学モデルと社会モデルの2つがあり、どちらに依拠するかということがあります。 ここ数年は、障害者差別解消法に社会モデルに基づいた「合理的配慮」の概念が盛り込まれたことで、社会モデルの考えを踏まえた支援体制の整備を後押しするようになりました。 特に、初めて聴覚障害学生支援に取り組む大学もやはり社会モデルの視点でまずどのような支援を行うかということから開始するこ