ある男、人間

「もう7時過ぎてるよっ、早く用意しなよぅ・・・ったく」
下の子は発達障害があり、ふとしたことで他に気を取られてしまう。今朝も着替えをしていたものの、兄がYoutubeの話題をふったが故に、途中で手が止まり母から怒られてしまった。
「今、やってるじゃんっ!」右足で床を強く踏む。
母親はテーブル上の請求書を見て「どうしよう」と、私に聞こえるように呟く。
 
 私は東京の大学で教員免許を取得し、教員となって戻ってくる積りであったが、当時国体が開催されたこともあってか教職員の求人倍率は40倍と高く、2度試験を受けたものの夜間のマシンオペレーターのバイトで生活をしていた。
 そんな時に父が脳梗塞で倒れ、長男でもあったので、帰省し従業員100名にも満たない印刷工場に就職することとした。その工場に居たのが今の妻である。当時はおとなしく黙々と印刷に使用する版を作製していた。同じ部署であり、彼女も居なかったので軽くドライブに誘ったらついてきて、それから何度か会うようになり、いつか私の部屋に彼女の荷物も増えていき、そのまま同棲、その流れで結婚し、2人の男の子の両親となった。
 大学の時もそうであるが、元々相手に対してそれほど期待することが少なかった私にとって妻は、時折典型的な母親の姿を見せたり、時折奥さんとしてのかわいい姿を見せたりしていて、私も「家族とはこんなもんだろう」と気にすることも無く、すごしていた。
 
「来月の支払いどうするの?」
私は印刷工場を辞め、求職活動をしていた。辞めた理由としては、業務内容が評価され役職を与えられたものの、自身がこれまで実施してきた業務に加え、部下の指導・管理、協力会社・納品顧客との打合せ、それらの資料作成など残業・休出は当たり前。それでいて「働き方改革」のお陰で上司からは「残業はするな」「どうして休出しなければならないの?」と現場を知らないが故に簡単に削減を要求され、部下からは「残業代は出なくても、やらないと終わんないっすよ。・・・でも疲れますよねぇ」と愚痴ではない諦めの声が聞かれた。上司に掛け合い「せめて部下の実施した業務に対する報酬を」と声を挙げたものの、なんら改善されることはなく、そのうち退職者などもあり当部署が抱える業務量はいよいよ限界を越えていた。同僚からは「辞めんなよ、ほんとに困る、業務が留まるから」と言われたが、自身としても諦めきれない程のストレスで、毎朝会社が近付くと吐き気を催すようになった。
 妻には相談しなかった。話しても相談にはならないし、ただ「5月末に会社を辞める。2ヶ月間ほどの有給を使って、別の仕事に就くよ」と話し、妻は「そうなんだ」と言ったばかりであった。
「う~ん、何とかするよ」と言って、2階へ上がりPCを開ける。特にキーボードにもマウスにも触れず、PCの壁紙を見ている。当てがあったわけではない。暗く重い空気から逃げたいだけだった。
 退職してから1ヵ月半が経過する。
幾つもの会社に応募しているものの、年齢もあってか書類選考のみで「不採用」のメールばかりがスマホから通知される。来月の生活費が不足する、借りる当てはない、どうする?
 
 役職なんかもらわなければよかった。一社員として継続する分には、まだまだ諦めることができたはずだ。
 もっと上司に訴えればよかった。もしかしたら新規採用をして業務量も部下の負担も減らすことが出来たかもしれない。
 印刷工場に入社しなければよかった。もっと慎重に選べばよかった。同規模の会社でも他にあったはずだ。
 
 父が倒れなければ。

 妻をドライブに誘わなければ。

 子供が居なければ。
 
 
”もう少し、言い方があんじゃねーの?全部、俺が悪いの?”
 どんな思いをして仕事をしていたと思ってんだ。役職がついてからだって、休日は無いに等しく時には欠勤者の代わりに夜勤だってしてきた。その時だって子供と買い物や遊びに行って来たくせに。
 
”あいつが死んだら、どうなんだろう?、交通事故とかで・・・”
 家を売って、一人暮らしに戻れれば、楽だろうなぁ。もっと自分をわかってくれる人と会えるかも。
 
 今、考えていることや、思っていることを、Wordに書き連ねていた。これまでも書くことで発散とはいかないものの、少し落ち着かせることが出来ていた。今回はそれでも憤りが収まることは無かった。ファイル名を「無題」としてその脇に日付を入れて保存し、PC画面を閉じた。
”あー、めんどくせっ” 
 1階に下りて、「ちょっと出てくる」と告げ、「どこ行くの?」との妻の問いを無視して、そそくさと車に乗り、家から離れ始めたところで音楽の音量をかなり大きくした。
 
 
 妻は、洗濯物を取り込もうと2階に上がり、閉じかけているPCから明かりが漏れていることで、手を掛けた。デスクトップに「新しいフォルダー」があり、興味本位から開けてみると、「無題」の文字と数字の羅列されたいくつものファイルがあった。その中から、更新日がついさっきの日時となっているファイルがあり、ダブルクリックした。
 
 いま妻は、内容を読んでいる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?