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宇出津の町と我流キリコ論 - 2024あばれ祭体験記②

さて、あばれ祭の二日間の体験を通じて見たものや感じたものを、忘れないように記しておきたい。


あばれ祭体験企画

一般社団法人マツリズムの大原学と、Facebookで「能登町ファンクラブ(仮)」を主宰する助川富美恵さんがタッグを組んで立ち上げた企画に、全国から計28名が集まった。
この28名を、受け入れてくださる3つの町会「大橋組」「川原町」「崎山二丁目」ごとのグループに振り分け、二日間のお祭りにどっぷり入っていくこととなる。

ちなみに、能登半島においては宿泊施設も含めて日常を取り戻せておらず、この期間中の滞在場所をいかに確保するか、企画の課題の一つであったという。
結果、のと里山空港のほど近く、輪島市三井町にあるボランティア拠点を運営する「のと復耕ラボ」さんに企画主旨に賛同いただくことができ、このラボに寝泊まりさせていただくことができた。
(普段から宿泊を受け入れているわけではないので、ご関心のある方はこちら

ただ、そのボランティア拠点から宇出津地区まではまだまだ距離があり、車で40分ほど。
ちょうどよい公共交通もない。
そこで、参加者のマイカーや、新たに調達したレンタカーに参加者を振り分け、移動するという形をとった。
初対面同士が多い中、基本的に移動はこの車グループ単位に限定され、ハンドルキーパーや補助者も確保する必要があるという複雑さもあり、この集団大移動の管理は運営メンバーに大きな苦労であったろうと想像する。

なお、2日間フル参加するメンバーの多くは、両日とも同じ町会のキリコを担ぐこととなっていたが、私は例外的に、7月5日(金)は川原町に、2日目の7月6日(土)は崎山二丁目にお邪魔することとなった。
少し寂しい思いもあれど、一度に複数の町会を通じてあばれ祭を体験・理解できるという醍醐味もきっとあるのだろう。

宇出津地区へ

初めて踏み入れた宇出津は、やはり小さな町という印象だった。
山側から町に入ったので、まず見かけたファミリーマートに大資本の風を感じることになるのだが、それから先はチェーンのお店も、高い建物もない。
海に向かって、のどかなヒューマンスケールの町並みがひたすら続くばかりである。

ただ、お祭りの日というだけあって、町並みの見た目とは不釣り合いなほど、町に人が集まっていることを感じる。
それも、東京のお祭りでよく見かけるような構図ではない。
圧倒的多数のギャラリーに対して、お祭り衣装を着た少数の担ぎ手がいる、というわけではないのだ。
そう、ほとんどが担い手・担ぎ手であり、お祭り関係者である。

そもそも、この宇出津という町の小ささである。
地区の人口は約4,000人程度と聞いており、マンションはおろか、戸建住宅か店舗併用住宅、ちょっとした事務所以外の建物を見つけるほうが大変だ。
人口密度などきっと、想像の範囲に収まる程度であろう。
にもかかわらず、歩いて数秒ごとに、次々にキリコが鎮座し、お祭りの開始を今か今かと待っている。

キリコを担ぐために担ぎ手が約30人程度、そして担ぎ手を支える人たちもあわせれば100人弱は要するであろうか。
あばれ祭では最大で約40基のキリコが出されるという情報を思い起こす。
老若男女含めての地区人口4,000人だとして、少子高齢化も踏まえると・・・、どうも計算が合わない。
そうか。現住民だけでお祭りを作り上げているわけではないのだ、という事実に気づく。

そういえば、町に足を踏み入れた時点で、町は騒がしかった。
まだキリコが動き出す時間ではなかったが、これから二日間聴き続けることになる独特な太鼓と篠笛の囃子が、もう始まっていたのだ。
お祭りの二日間中、キリコの終わった深夜を除いて、この囃子が止まったタイミングを知らない。

川原町へ

1日目の持ち場である川原町へ向かう。

出発を待つ川原町のキリコ

宇出津の中心部を流れる「梶川」のそば、デザイン事務所「株式会社SCARAMANGA (スカラマンガ)」の前に、組み上がった川原町のキリコが鎮座していた。
なお、このスカラマンガを主宰する辻野実さんが、マツリズムの大原とこの川原町をつなげてくれたキーパーソンだ。

辻野さんとのご挨拶

あばれ祭における担ぎ手をはじめとしたお祭り関係者のスタイルは、東京や関東で見かけるそれと比べると、だいぶカジュアルな印象で、自由度も高い。
川原町は特にゆるい印象で、法被ではなく揃いの黒いTシャツに身を包んだ集団であり、その背中には、キリコに書かれた言葉「思無邪」を背負っていた。
この一員として、いよいよキリコを担ぐことなる。

キリコとの出会い

初めて、自分がこれから担ぐものとして、キリコを見上げた。
やはり明らかに背が高い。あと少しで電線に触れそうな高さだ。

担ぎ棒の組み方を見ても、御神輿のそれ(縦方向それぞれ2本ずつの親棒と脇棒を、横方向のトンボ2本が結ぶ組み方)とは大きく違う。
特に横方向の部材が多いほか、全体的に部材はより太く長い。
がっちりと組まれている印象を持つ。
と同時に、これから肩にのしかかるであろう衝撃を考えると、思わず緊張感が走る。

さらに、キリコの担ぎ棒に、和柄の紐付き座布団がいくつも括り付けられていることに気づいた。

紐付きの座布団が括り付けられている

なるほど、東京の御神輿では、肩への衝撃を和らげるために自己判断の範囲で、半纏の内側などにタオルなどを仕込む人は少なくない。
しかし目の前にある事実は、そんな次元の話ではない。
縦横の担ぎ棒によって作られたグリッドのひとマスひとマスに、座布団が結ばれているのである。
少なくともここでは、自分の座布団を持ち場に括り付けるのが基本なのだ。
なお、「自分の座布団を括り付けて自分の持ち場を決める」という点が、担ぎ手とキリコとの向き合い方の特異性を規定していることに気づいた。これは後述したい。

いざ、担ぐ

予定の14:00頃になると、キリコは動き出す準備を始めた。
担ぎ手が肩を入れて屈む(これがつらい)と、先導役の方の、
「やーーーー、さーーーの!」
という号令にあわせて、一斉に立ち上がる。
もちろん最初は、それがキリコを持ち上げる号令だとは気づかない。
周りにあわせてオタオタと立ち上がる程度が関の山である。

重さは感じるが、意外と持ち上がるものだ。
ここまではよい。

しかし、進まない。全然進めないのだ。
担いだキリコの動作について言えば、ほぼ平行移動のように進んでいく。
東京の御神輿のように、足踏みのリズムに合わせて、小刻みに上下させるような動きは、少なくとも川原町のキリコにはなく、ガンガンと肩をぶつけることによる消耗はない。
しかし、どうも進まない。せいぜい数mごとである。

数mしか続かないのに、想像の数倍の重量が肩にのしかかる。
御神輿よりも担ぎ手が多いからか、全体における自分一人の貢献度が小さいため、頑張って持ち上げようとするとそれだけ負担を招くことになる。
足にも負担がくる。
これが今日と明日の2日間、身体はもつのか?と心配になるほどであった。

重さを感じさせる表情

また、特徴的なのは、独特の停止方法である。
文字通り、”突然”止まるのだ。
御神輿の場合はその形状から、もちろん床に置くわけにはいかないので、置くための台となる”馬”がどこからともなく登場する。
これが登場すれば、御神輿が停車準備状態にあることに担ぎ手もすぐ気づく。
したがって、担ぎ手は一定の心の準備をしたうえで、ゆっくりと停止体勢に移行することができる。

しかし、キリコは中央部に4本の足を保有しており、そのまま路上に置くことができる。
そのせいか、止まる予兆としてのわかりやすい動きがないのだ。
急にどすんとブレーキがかかる。

担ぎ手の息が合わない、持ち上げる力が限界に近づく、等の理由で、キリコの”足”の部分が、少しずつズズッと地面を擦ってしまう。
この”地面とぶつかる”感覚が担ぎ手一同に伝わると、反射的にキリコを下ろす(≒肩を外す)慣習になっているようだ。
いやいや、こんなこと誰も教えてくれなかった。笑

この慣習を知らず、序盤の私のように、「おや、重くなったな?」とむしろさらに頑張る人もいるが、中途半端に抵抗して頑張っていると、それだけ肩や足の負担は増す。
キリコは、肩を抜いて退くタイミング、潔さが重要なのである。

また、太鼓と笛の囃子にあわせて、歌うような掛け声も新鮮だった。 「・・・・そーれ!・・・・ちゅちゅんこちゅーん、・・・いーやさっかさい!!・・・いーやさっかさい!!・・・さっかさい!・・・いーやさっかさい!!・・・」
と、意味ありげな言葉に対して再現の難しいリズム。
1日目の夜くらいにようやくマスターし、自分が一番手になったとしても自信持って叫べるようになったが、お祭り後ひと月ほど経った現在、もう思い出せなくなってしまった。

キリコとの対峙

このような独特のキリコ担ぎなので、不慣れな身体はもちろんすぐに疲労を感じ始める。
お祭り当日特有のハイなテンションに、限界を超えて頑張ろうとするも、それも限界まで来ると、「もう誰かに代わってよいか・・・?」という気持ちがよぎる。
しかし、ここがキリコの特徴と感じた。簡単には代われないのである。

これは、担ぎ手の減少、という類の話ではない。
確かにキリコ周辺にベンチメンバーが豊富にいる印象はなかったので、それもあるかもしれない。

なぜ簡単に代われないか。
先に述べたようにキリコの担ぎ棒には、自分の座布団を括り付けて”持ち場”が作られている。
それは紛れもなく個人の所有物であり、名前も書かれている。
ひもを解いたり結んだりすることには多少の時間を要するため、キリコが動いているうちはなかなかできるものではない。
これは、御神輿のような「おまえでろ!おまえはいれ!」のような、瞬間的な担ぎ手交代が難しいことを意味する。
“自分の持ち場は最後まで責任をもって”、という精神をより強く体現する形なのだ。

また、先述したように、キリコを担ぐための担ぎ棒は神輿よりも多く、組まれ方もがっちりとしている。
担ぎ棒は碁盤の目のようなグリッドになっており、そこに担ぎ手すっぽりとおさまる形となる。
ひとマスの大きさにもよるが、基本的には内側のグリッドには、1〜2名しか入ることができない。

担いだ時の目線はこのくらいになる。周囲の担ぎ手の顔はほとんど見えない

さらに、担いでいる最中は、太い担ぎ棒が目隠しのような役割となる。
目線の高さにもよるが、担いでいる最中は周囲の担ぎ手の存在を感じにくい。
キリコのようなモンスターを一人で担げるわけはないが、担いでいる最中は、擬似的にキリコと1対1の勝負をしている感覚を持つ。
周囲を感じる方法は一つ、”掛け声”をあげることである。
キリコでは「わっしょい」などを連呼するのではなく、リズムと詞に一定の特徴と長さを持つ掛け声が使われているのも、周囲を存在を感じにくい中で、息を合わせてキリコを担ぐための工夫なのだな、と推察する。

さて、キリコが海に近づき、昼の部が終わる。

この場所で昼の部を終えた

(記事:今場)

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