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第8章:人助けは自分のためであるという考え方

みなさんは最後に人助けをしたのはいつだか覚えていますでしょうか。
わたしは一日一善をこころがけて過ごしていますが、今回は、昨日させていただいた人助けをきっかけに学んだことを共有したいと思います。

個人的に想いが強すぎて、4,200文字超えの文章になってしまいましたが、賛否両論あるテーマだと思うので、みなさんの考え方も伺えたらうれしいです。

なぜ今回のテーマを人助けにしたかったかというと、幸いにも会社から夏のボーナスをいただけたので、半分はコロナ禍で困っている方々と医療従事者に届く使い方をしようと決めたことがきっかけでした。

昨日は、まずは、HONEYPOT PROJECTという企画で販売されているチャリティTシャツを購入しました。わたしの好きなYoutuberの方もコラボ商品を出展されていたので、そのきっかけでこの企画と出会いました。

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また、週明けには、地元である福岡県久留米市のコロナ支援事業などに寄付をしたいと考えています。

金額面としては、わたしにできることはとても小さいですが、様々な形で自分にできることから社会に還元していき、本当に困っている方々へ届くようにと願っています。

というわけで、今回は人助けをすることの意義について考えていきたいと思います。

人助けによって生まれるもの

この記事を書こうと思い始めた時点から、人助けという言葉の、その「人」とは誰のことかということを今回深く考えるようになりました。

もちろん受け取り手である「相手」であることは確かなのですが、果たして、人助けで助けられるのは、その「相手」だけでしょうか。

わたしが思うに、色んなサポートや支援をしていく中で、ある意味自分自身も助けられていると気づき始めました。

それは、誤解を恐れずに言うと、相手のために行動できている「自分」を好きになっている自分に気づいたからです。

ナルシストなのかと思われるのは避けたいところですが、自分の損得関係なく、会ったこともないし、直接感謝されることもない相手に対して、何かできることはないかと考えて、その相手のために行動ができたことで、たったそれだけで、わたしは自己効用感でとても心が満たされました。

これはもはや、完全に自己満足です。

しかし、その自己満足の自己効用感によって、穏やかな気持ちで1日を過ごすことができましたし、少しでも社会のために貢献できたという自信にも繋がったため、自分を少し肯定できるきっかけにもなりました。

つまり、人助けをすることによって、わたしも助けられていることに気づいたのです。

たった数千円の金額ですが、ここまでの効果があるのであれば、今後も積極的に人助けを心がけたいと思うようになりました。その行動によって社会も少しずつ豊かになるのであれば、相手、社会、わたしの三者間のWin-Win関係だと思います。

日本は人助けの文化が遅れている?

あらゆる世界の調査結果によって、日本は人助けの意識がとても低いことが明らかにされています。

まず、国家が貧しい人の面倒を見るべきか?という質問に対して、「面倒見るべき」と回答をした方がたったの59%で、日本は47カ国中47位という最下位という結果が出ています。
(出典:ピュー・リサーチ・センター2007年調査

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根底には、「そもそも、貧困とは、貧しくなる人たちのせいなのだから、国として助けるべきではない」というような自業自得であるという考えがあるということも指摘されています。

また、別の調査の例を挙げると、イギリスのチャリティー団体Charities Aid Foundation(CAF)および、アメリカの世論調査企業ギャラップの調査による、人助け、寄付、ボランティアに関する指数である世界寄付指数では、2018年の調査によると、日本は144ヵ国中128位という悲惨な結果となっています。

欧米にはノブレス・オブリージュという考え方が一般的な価値観として根付いており、ビル・ゲイツ氏は個人で今回の新型コロナのワクチン開発に1,700億円もの拠出を表明するなど、人助けの意識がとてつもなく高いことが伺えます。

ノブレス・オブリージュとは、
身分の高い者は、それに応じて果たさねばならぬ「社会的責任」と「義務」があるという、欧米社会における基本的な道徳観。
(出典:コトバンク

この2つの調査結果から言えることは...


"日本は先進国の中でずば抜けて人助けの文化がない"



という悲しい現実です。

日本がここまで人助けの文脈で各国に遅れをとっている背景はいくつか理由があると考えます。

<人助けが根付かない背景 (まつおの持論)>

1つめに、「みんなやってないし、自分もやらない」という意識
2つめに、「自分のことで精一杯」という態度
3つめに、「ノブレス・オブリージュ」の文化が根付いていないこと

2つめと3つめは個々人によって異なると思いますが、1つめの背景については、団体行動が義務教育で染み付いている日本人特有なのかもしれませんが、みんながやっていないことを率先してできない日本人はとても多いように感じます。

しかし、世の中を変えるためには、「まずは自分から」という一人一人の意識の高さが必要となります。

嫌われる勇気』で有名になった、アドラー氏も、自ら行動を始めることの重要性を説いています。

誰かが始めなければならない。
他人が協力的ではなくてもそれは関係がない。

私からの助言はこうだ。
「あなたが始めるべきだ」
他人が協力的かなど考えることなく。

— アルフレッド・アドラー

さらに、ペンシルベニア大学ウォートンスクール教授のアダム・グラント氏(Adam M. Grant)は、自身の著書『Originals』の中で、一歩踏み出すことの重要性について、以下のように提言している。

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オリジナルな人とは、一般に多くの人が従っている価値観に同調しないで、安全地帯から一歩踏み出してより良い世界・環境を作るために行動出来る人である。

エリートや天才といった人たちほどオリジナルな人にはなれない。
彼らは既存の価値システムに従った方が楽で評価もされるので、
わざわざオリジナルな人にはなろうとしない。

— アダム・グラント

世の中により良い変化を起こす人がオリジナルな人であり、自らのビジョンを率先して実現させていき、「今あるもの」に流されてを既存の価値観をそのまま使うのではなく、より良い選択肢がないかを探し求めていく人たちが世の中を変えることができるオリジナルな人であると定義しています。

同調・同質であることが美徳だと思われていた過去の時代とは異なり、誰もが「人と違うこと」ができる時代であるからこそ、周囲がやっていないことでも、自ら率先して行動を起こすということが社会全体の風潮を変革する大きな第一歩だとわたしは考えています。

「やらない善より、やる偽善」は迷惑行為?

2011年の大震災時に、良かれと思ったのか、たくさんの千羽鶴を被災地に送ったりしていた方々がいたとよく耳にします。

「被災地に生活の糧にもならない千羽鶴を送るなんて迷惑だ」

そんな指摘もあったようですが、その行為自体はやさしさからくるものだったと思うので、それら全てを迷惑行為だと表現するのも少し違和感を覚えます。

結果的には、処分にかかる費用は、その送り届けられた地域の自治体の予算で賄わなければならないため、結果的には迷惑となってしまったという例だと思います。

送る品目は考えるべきだったという指摘はとても理解できるので、相手のことを考えた人助けが大事ですね。

まずは、受け取り手の立場になって考えて行動を決めれば、迷惑行為になることは少ないと思うので、良い人ぶっているとか、偽善者だと揶揄されても、人のために行動したいという素敵な目的のために動いたことには変わりないので、その裏に自己効用感を得たいという意図があったとしても、わたしは、その手助けの受け取り手が喜ぶ行動に対しては全面的に肯定します

世の中には、人の行動を批判して自分を正当化する類の人々もたくさんいます。そういう傍観者的で批判に尽力していて自らは手助けをしない方々もわたしは否定はしません。

正しい行動や考え方など、絶対的な定義は誰にもできないので、その人にとってそれが正しいと認識していれば、わたしが口を挟める余地はないと考えているからです。

しかし、仮に自分がその類の無行動人間になったと感じた場合には、わたしは自分で自分が嫌いになるので、困っている人が目の前にいて、自分が少しでも助けになれる余地がありそうだと感じたら、迷惑と思われないかを一旦考えてみて、すかさず手助けします。

わたし個人としては、日本に手助けの文化が根付いていないのはとても悲しく感じますが、文化的な要素もあるため、自分から率先して行動すればそれで良いという考え方に至っています。

考え方の強要は、正しい理解の求め方ではないと思うので、自分とは異なる考え方の人の批判はせずに、ただ黙々と「わたしはやります、こういう理由で。」ということだけを発信していきたいです。

理解なき批判や対立からは豊かな価値は生まれないと考えているため、色んな価値観を理解できるためにたくさん勉強をして、たくさんの立場の方々の声を聞ける人間になるための成長をこれからも続けていきたいと思います。

まとめ

小さなことでも人助けをすると、純粋にとても心持ちがよくなるので、わたしはチャリティや支援寄付には非常に肯定的です。

自分のサポートが、誰の手を経由して、どのように利用されるかは完全にブラックボックスではありますが、そんなことを考えていたらいつまで経っても手助けできないので、まずは人を信用して、ちゃんと困っている方々や応援したい方々に届くことを祈って行動を起こした時点で、その手助けは素敵な行動と言っていいのではないでしょうか。

「やらない善より、やる偽善」とはよく言いますが、受け取り手に迷惑だと思わせるものでなければ、偽善でも社会を豊かにできるため、わたしはあなたのその行動を純粋に尊敬します。

その純粋なあたたかい行動が、いずれ世の中に浸透し、社会を豊かにするきっかけとなります。

途中、熱弁してしまった部分もあってお恥ずかしいですが、それも含めてわたしということで、ご了承ください…。

それでは、みなさん、今週も1週間おつかれさまでした!
日曜日には、また「今週の学びのまとめ」を投稿したいと思います。

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