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48 凡庸な悪

1984年、『朝日ジャーナル』誌上に「新人類の旗手たち」とのタイトルで、筑紫哲也と当時の若者たちとの対談が連載された。新人類(しんじんるい)とはどうやら経済人類学者の栗本慎一郎による造語らしい。どこか無気力で冷めた傾向のある1961年から1970年生まれの若者たちを指してこう呼んだ。Wikipediaを検索すると、特徴として「社会を構成する一員の自覚と責任を引き受けることを拒否し」とある。実のところ私自身がこの世代である。

厚労省で部下に対し「死ねっつったら死ぬのか」と発言した職員が懲戒処分を受けたとのニュースがあった。「言われたのでこうしました」との言葉に対し、「じゃあ、上司が死ねと言えば死ぬのか」そんな言い回しが使われ始めたのも「自覚と責任を引き受けることを拒否」する新人類が出現して以降かと思っていたのだが、しかしそれは違うようだ。

1961年4月11日から、エルサレムではナチス・ドイツのゲシュタポ(秘密国家警察)ユダヤ人移送局長官だったアドルフ・アイヒマンの、人道に対する罪や戦争犯罪の責任を問う裁判が行われていた。アイヒマンが上司からの命令に忠実に従って職務を遂行した結果、数百万人のユダヤ人がアウシュヴィッツ強制収容所へ送られ、虐殺された。裁判の中でアイヒマンが言った言葉が「私は命令に従ったまでです」というものであった。それに対し検事が「もし上司からあなたの父親が裏切り者だと聞かされたら撃ち殺すのですか?」と質問するとアイヒマンは答えた。「裏切りの事実が証明されれば遂行したでしょう」

この裁判を記録したドイツの政治哲学者ハンナ・アーレントは、残虐なホロコーストの中心人物であるアイヒマンが、凶悪とは程遠い極めて普通の役人である事に驚いた。この巨悪のなんと凡庸な事かと。ハンナ・アーレントは著書『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』(大久保和郎訳、みすず書房、新版2017年)の中で、この事実を「凡庸な悪」と表現した。ユダヤ人迫害を実行した役人たちは凶悪な思想の持ち主ではなく、極めて普通の人たちであった。彼ら「凡庸な」役人たちが、ヒトラーの命令に「何も考えずに」従ったことによって、ホロコーストが現実のものとなった。彼らには自分が職務を遂行した結果、何が起こるのかという想像力が完全に欠落していた。

アイヒマンとは対極の意味合いで語られているのが、リトアニア領事館で外務省からの訓令に反して大量のビザを発給し、避難民を救出した杉原千畝なのだろう。官僚すべてが指示に反するようであれば組織は立ち行かなくなってしまうのだろうが、自分が職務を遂行した結果、何が起こるのかという想像力を働かせ続けることは、人でなしにならないための必要な営為である。

J・D・サリンジャーの『The Catcher in the Rye(邦題:ライ麦畑でつかまえて)』の主人公・ホールデンは妹に向かって、自分はライ麦畑で遊んでいる子どもたちが、崖から落ちそうになったときに捕まえてあげるライ麦畑の捕まえ役になりたいのだと話す。哲学者の内田樹は『日本霊性論』(内田 樹, 釈 徹宗  2014年/NHK出版)の中でこの作品について、ホールデンの言う「ライ麦畑」とは人でなしと人間らしさの間のグレーゾーンの事であり、そのグレーゾーンに立って「クレイジーな崖っぷち」から人でなしの世界へと人間が落ちてしまわないように見張る歩哨として、杉原千畝のように「結末」に対する想像力と責任感を持った人が必要なのだと語る。ホールデンの言葉を借りればそれは「ちゃんとした大人みたいなもの」だ。しかし歩哨(見張り役)は崖っぷちに立つがゆえに自分自身が人でなしの世界へ落ちてしまう危険性もはらむ。それがアイヒマンだ。大切なことは、杉原もアイヒマンも元は普通の公務員だと言うことだ。

自分が担う職務を遂行した結末として何が起こるのか。その想像力の有無こそが、人と人でなしの境目だ。優秀な実務家は優秀な首領の元でこそ活かされる。もし首領が間違いを犯している場合、実務家は自らの歩哨としての判断力を働かさなければ、悲惨な行為の一端を担ってしまう事になる。

*今週の参考図書
・『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告【新版】』ハンナ・アーレント著/大久保和郎訳  2017年/みすず書房
・『日本霊性論』内田 樹, 釈 徹宗  2014年/NHK出版

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