暮学のすすめ
暮らしについて話をしたい。
私が「暮学(ぼがく)」と名付けた言葉についての話だ。
ウラを取っていないので、どこかの誰かが既に使っているかも知れない。
それならそれとして、私はこの言葉に新たな意味合いをひとつ加えてみたいと思う。
暮学とは学問の名前ではない。姿勢の名前である。
暮らしを営んでいくにあたり、「暮らしにおいて滲み出ている『外側の事柄』を見つけ、対峙し、そこから学んでいく姿勢」のことである。
暮らしを維持工夫・豊穣させ、次の世代へ伝えていく姿勢を意味する。
少しだけ、暮らし・暮らすことについて考えを進めたい。
暮らしという言葉、暮らすと名付ける行為は、生命活動の範疇で、より文化的であり、秩序や安定を保った状態を前提に持っていると感じる。また、個人の暮らし、家族の暮らし、地域の暮らしというように、ヒトは視座に応じて意味合いを分けて捉えるものらしいと感じる。しかし、それらは完全に分断して在るのではないようだ。
例えば、あなたと私の暮らしは違うのよって言われたら答えは、ハイそうですね、だ。
でも、自治会とか子供の学校など地域の暮らしに関することがらを考える場合、その人と同じ地域に暮らしていたりすると、自身の暮らしを地域の暮らしを経由して相手の暮らしと折り合わせる必要がある場面も出てくる。
あなたと私の暮らしは別のものだけど、つながりがないわけではないことになる。が、つながりがないわけではないと言って、あなたと私はつながっているんですよっと、不必要に迫られてるのも勘弁してほしい。
どうやら、暮らすという行為は、自身や家族の衣食住を努力工夫して何とかすることとは別に、自分以外の暮らしと折り合う要素があるようだ。
こちらの方が難しいように思う。
なんせ、相手のことなんか知らないし、数が多すぎる。
暮らしとは、無数の他者と折り合うための準備を常に備え続けなければならないのか。しんどいやんか。
答えはノーであると言えるし、イエスであるとも言える。
ノーである理由。
普段、ヒトは暮らしについて特別に意識することはないから。
暮らしが平穏(のように感じている)であるとき、ヒトは暮らしについて意識することは、ほぼ無いと言ってよいと思う。今日の暮らしに概ね満足しており、おそらく明日も続くであろうと予想できる状況にあるかぎり、そのことは続いていくように思える。
ヒトの脳ミソや心は、過大なストレスが続く状況を嫌うように出来ている。
次にイエスである理由。
これは簡単。暮らしが平穏であり続けることなど、あり得ないから。
私を含めて世の中ほどんどのヒトが、平穏な暮らしを目指して日々努力している、たぶん。その結果として、平穏な暮らしが概ね実現できているのだろうと思っている。自身の努力はもちろんだけれども、他者の努力の恩恵も受けて自身の暮らしの平穏は実現出来ている。むろん自身の努力は、名前も知らない他者の暮らしの平穏に貢献しているはずなので、おそらく。
つまり、平穏な暮らしは自身の努力と他者の努力とが折り合って実現していると言えるのではないか。違う見方をすれば、平穏な暮らしとは自身と他者との均衡がとれた状態、とれていると感じている状態と言えるのではないかと思っている。
となれば、無数の他者と折り合う準備をする前に必要なのは、目前にある均衡に対する「目くばせ」ではないかと考える。
コマなし自転車を乗っているときに、転んだときの受け身態勢のことや治療する病院の口コミを調べたから大丈夫ではなくその前に、タイヤの空気圧が適正であるかとか、目前に段差があるから減速しようとか、通学路だから子供の飛び出しに用心しておこうとか、そういうことだ。
自転車に乗っている以上、転ぶ可能性がゼロになることはない。しかし、可能性を下げることは努力工夫で可能だ。
暮学の入り口は、そこにある。
自転車の適正な空気圧とはどのくらいなのか?
空気を入れる道具は持っているのか?入れる道具を使える手段を持っているのか?手段を用いる際、相手との関係は保てているのか?
自転車に乗って走る道の知識はあるのか?最新情報を更新出来ているのか?
子供の飛び出しは、こちらが気をつけるしかない。自分の子供や孫には、折に触れて十分に注意しておこう。
いや、今日は体調がすぐれないし、天候も悪いので自転車はやめてバスで移動しよう。
こんな「目くばせ」をしたと仮定したとき、自分に足りないところはあったのか?なかったのか?
足りないところがあったのなら、学ぶ必要がある。
で、私たちは学ばなければならないと思う。何度くり返したとしても、学んだ事がらを自身の血肉にしなけれなならないと思う。
それが、暮学の普段である。
学びは、校門をくぐった先の教室にあるわけではない。
学びの入り口は、普段の暮らしにこそある。
大人は、死ぬまで学びをやめてはならない。
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