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【掌編】雨宿り

 快晴とまでは言えないものの、ほんの一時間前まで空は明るく、夏の陽気を湛えていたというのに、なにが気に食わなかったのか、重々しい雲を呼びこんで不機嫌になり始めた。海岸と山々に挟まれたその町は、なにより天候が崩れやすいことで知られていた。

 間もなく最初の一滴が落ちてくると、少年はランドセルを鳴らして駆けだした。傘を持っていなかった。朝、うっかり忘れてしまったのだ。坂道のカーブを上がり、段々に連なった住宅地を抜けると、雨はいよいよ本降りになった。
 少年はたまらず酒屋の庇に避難した。一昨年にシャッターを閉めて以来、自動販売機だけが動いている古い店だ。細い車道を隔てた真向かいには公民館がある。人影はどこにもない。雨の音以外に聞こえるものはなにもなかった。
 ランドセルを下ろし、濡れたシャツを扇ごうとしたそのとき、彼はぎょっと立ち竦んだ。白い影がいきなり軒下へ飛び込んできたからだ。
 首輪をつけた犬だった。中型犬であるが、少年の目には恐ろしく大きな動物に映った。少年に負けず劣らずのずぶ濡れで、背中がなめされたように光っている。白い毛並みのせいで、脚の先の汚れがよく目立った。
 犬はくしゃみを放つと、ぶるぶると体を震わせた。飛び散った水滴が頬に当たったが、少年は身じろぎすら取れなかった。噛まれたらどうしよう、と恐怖で頭がいっぱいだった。
 彼は犬が大の苦手である。
 理由は、自分でもよくわからない。保育園に通っていた頃、親戚が飼っていたゴールデンレトリバーに押し倒されたのが原因かもしれない。噛まれたわけではなく、そのときはむしろ顔中舐め回されたのだが、間近で見た牙の鋭さと息の臭さ、そして、生命の塊が全力でぶつかってくるあの猛烈な勢いが、幼い彼にはトラウマになったのかもしれなかった。
 凍りついている少年と対照的に、犬は悠然と腰を下ろし、お座りの姿勢で雨を見つめていた。少年を気にしている様子はない。首輪があるということは、野良ではない。人に慣れているようでもある。しかし、少年にそこまで考えられるゆとりはなかった。
 雨はすでにどしゃ降りだった。酒屋の雨樋から、水が太いロープのようになって垂れ落ち、地面をやかましく叩いている。悲鳴を上げても誰にも聞こえないかもしれない。
 いっそシャッターを叩いて、酒屋の人に助けを求めようかとも考えたが、そうしているうちに犬を刺激して噛まれたら元も子もない。それに、自分のこの考えを見透かされているような気にもなってきて、少年はますます動けなくなった。なんというか、この犬にはそう思わせる雰囲気があるのだ。なにをやっても上手を取られる予感がある。極端に犬を怖がる彼にとって、犬という動物は、人智を超えた能力を備えていてもまったく不思議ではない獣だった。戦っても、きっと負けるだろう。だから怖いのだ。せめて傘があれば武器になるのに、と考え、そもそも傘があればこうして雨宿りすることにもならなかったと同時に気づく。今朝の自分が心底恨めしくなった。
 ――朝ごはんのとき、「傘忘れないでよ」と母さんが言ったのに、どうしてぼくは忘れてしまったんだろう。ちゃんと聞いておけばよかった。だいたい、ぼくはいつもそうなんだ。人の話をよく聞かずに失敗する。学校でもそう。先生の話を聞いていなくて、忘れ物ばかりする。そのくせ、自分の話を聞いていないやつがいたら頭にくる。それで今日、仲良しのユーくんと喧嘩してしまった。新しいゲームを買ったのに、ユーくんは話を聞いてくれず、ぼくが持っていない漫画の話ばかりするんだ。ムカつく、とそのときは思ったけど、我慢して聞いてあげていれば、今日だって一緒に下校していたはずだった。同じ傘に入れて歩いてくれたに違いない。
 自動車が通りかかったとき、少年はよっぽど車道へ飛び出していこうか迷った。しかし、二の足を踏んでいるうち、自動車は減速することなく、ワイパーを忙しく動かして通り過ぎてしまった。なんとなく、彼は世界中から見捨てられたような気分に襲われた。もう二度とこの庇の下から出られないように感じた。
 犬がまたくしゃみをした。
 少年がびくっとすると、犬は首を曲げて彼を見たが、すぐにまた雨の車道へと目を戻す。少し震えているようだった。
「きみ、寒いの?」少年は勇気を振り絞って訊いてみた。
 もちろん、犬は答えない。ぴんと立てた耳をかすかに動かしただけだ。
 あまり凶暴ではないのかも、と少年は初めて思った。そうでなければ、こんなにのんびりと構えていないだろう。
「どこかから逃げ出してきたの?」首輪を見ながら少年は訊く。「どうしてひとりなの? 誰かがきみのこと、探してるんじゃないの?」
 犬はまるで聞いていないかのようにあくびをした。人にやられると腹が立つはずなのに、少年にはなぜかそれが親愛の仕草に感じられて不思議だった。
 ――そういえば、うちの母さんも、外にいるときはしゃんとしているのに、家にいるときはだらしなくあくびやおならなどをしている。理由を訊ねると、「家族しかいないときはいいの」と慌てていた。あれと同じことだろうか。ぼくのことを、敵だとは考えていないのか。
 自分の足音が雨に紛れることを願いながら、少年は慎重に近づいてみた。犬はまったく動じない。やはり気にしていないらしい。腕を伸ばせば、もう触れられる距離だった。
 雨はさらに激しくなった。ぬるい水しぶきが、少年と犬の許にも跳ねてくる。小さな水流が路面にいくつもうねり、排水溝を目指して流れていく。公民館の屋根が白く煙り、その向こうの電線を霞ませている。心細くなる眺めだった。この一帯だけが世界から切り離され、スノードームのように、意地悪な誰かに掻き乱されているように感じた。
「すごい雨だよね」少年はまた話しかけた。「母さんが心配してるかも……、きみの家族は心配してない?」
 犬が少年を仰ぎ見る。近くで見ると、驚くほど綺麗な目をしていた。潤んだ黒色が、理科室のガラス棚に飾られた火山岩の滑らかな断面を思い出させる。
 少年は、いまや好奇心が恐怖を上回っていることをうっすら自覚した。
「あの、撫でてもいいかな?」
 訊ねてから、そぉっと手を伸ばす。
 犬がそれを追い、湿った鼻先を近づけた。噛まれるかも、といまさら不安がよぎったが、犬は彼の手のひらを念入りに嗅ぐだけだった。ほんの数秒のことだったが、少年には途轍もなく長い時間に感じられた。
 犬は薄くざらざらした舌で少年の手をひと舐めすると、それ以上はもう構わず、また雨を眺めた。彼は少しあっけにとられ、それから、ふいに直感した。
「もしかして、きみ、ひとりぼっちなの?」
 まるで頷くように、犬が少しだけ首を垂れた。
 途端に少年は、この犬が、世界の孤独を共有してくれるたったひとりの仲間であるように思い始めた。この小さな庇の下にいるふたりは、世界に置き去りにされた者同士だった。敵ではない。敵同士であるわけがない。
 少年は、今度は自然な手つきで犬の額に触れる。少し湿っていて、想像していたよりもごわごわした毛並み。その奥にかすかな温度がある。人間のおでこと同じだ、と頭の片隅で思う。
 犬は抵抗しなかった。少年がしゃがみこみ、首の後ろや背中へ手を移してもけして動かず、怒って唸るような真似もしなかった。
 庇の外では、相変わらず水しぶきが騒々しく跳ね回っている。地上のすべてを海へ還さんとする勢いだった。それでも、少年は犬を撫で続けながら、奇妙な静けさを同時に感じていた。不思議と怖くない。たとえ町が雨に沈み、この一帯だけが無人島のように周囲から切り離されても、この犬と一緒ならきっと大丈夫だろう。寂しさなんて、もはや自分の人生には無縁だと思った。

 やがて雨がやむと、風が出てきた。ぶ厚い雲が吹き流され、ちらちらと陽が覗くようになる。濡れた路面が鈍く光り、柔らかい水の残り香を漂わせた。
「雨、上がったね」
 少年は犬に触れながら呟いた。残念に感じている自分が少し意外だった。切ない夢を見たあとの朝に、それは少し似ていた。
 驟雨が去ったあとも、犬はしばらく少年のそばに屈み込んでいたが、彼が手を休めた瞬間、まるで誰かに呼ばれたかのようにして外へ駆け出した。まだ新しい水たまりを蹴散らしながら、一筋の白い光のようになって、公民館の脇の路地へと消えていく。少年を振り返ることは一度もなかった。
 少年は驚き、茫然と見送ることしかできなかった。犬がいなくなると、辺りからいっせいに音が生まれ、少年の耳を目指して殺到した。風が揺らす常緑樹の葉の震え、どこかを走る自動車の排気、水難を逃れた蝉の声……、町はまた元通りの鼓動を打ち始めていた。
 すぐに歩き出す気になれなかった。
 雲が払われた空を見ると、犬の存在だけでなく、あの激しい雨さえも幻だったように少年には思えた。しかし、両手にはあのごわごわした、湿った感触がまだ残っている。腕の中でおとなしく座っていた、あのたしかな生命の温度が、手のひらの皮の下でまだ輪郭を持っていた。

「なにしてるの?」
 突然声がして、少年は肩を跳ね上げた。振り向くと、ランドセルを背負った友達が立っていた。今日喧嘩してしまったユーくんだった。
 少年は驚きと気まずさを紛らわすように、おろおろと視線を逸らした。
「いや、べつに……、ここで雨宿りしてたんだ」
「あ、そう」ユーくんも少し気まずそうだった。「ぼくも、すぐそこの神社で雨宿りしてたよ。傘なんて役に立たなかったから」
 お互いに話したいことがあったはずなのに、ふたりは黙り合った。
 少年はふと、目の前の友達がびしょ濡れであることに思い至った。自分と同じだった。ユーくんも同じ雨を見つめていたんだ、と思った。地上を海へ還そうとするような、あの激しい幻のような雨を。
「いっしょに帰ろうよ」
 思い切って、少年は誘った。
「うん」ユーくんも恥ずかしそうに頷いた。「すごい雨だったよね」
「そうだね」自然と微笑みがこぼれた。
 陽が照り、瑞々しく輝き始めた夏の道を、ふたりは並んで歩き始めた。



<了>



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※2021年執筆。
 見出し画像:みんなのフォトギャラリー(大須絵里子様)

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