「女は愛嬌」と育てられたらこんな人間になってしまった
「女は愛嬌だよ」
昔から、いや、特に大人になるにつれて母親からよく言われるようになったこの言葉。
女の武器は、「愛嬌」らしい。
…少し、わかる。
女性だからどう、というわけではないが、愛嬌がある人は、その場の空気を明るくしてくれるし、話している間も「楽しんでくれている」感じがするから気分がいい。一緒にいて心地よいだろう。
母親は、明るくて楽天的なキャラクターだ。愛嬌もあるのかもしれない。
それに、毎日人と話す仕事をしているから、彼女にとって円滑な会話をするために「愛嬌」は必須要素なのだろう。
でも、天邪鬼な私は、これを素直に受け取れなかった。
「お前は愛嬌がない」
「女の『頭脳』は邪魔だ、ニコニコしていればいい」
と言われているような気がした。
そして
「愛嬌がないお前は、女性として劣等生だ」
という言葉に、勝手に変換してしまった。
ちょっと口の悪い言い方をする。
先ほどのような言葉から、「ニコニコしていて意見の少ない人がいい」
…むしろ「ニコニコしていて物事を深く考えない人がモテる」というようなニュアンスさえ勝手に感じとってしまった私は
愛嬌を武器にしているような人を軽蔑し、絶対にそんな人間になってたまるか…と思った。
だから、愛想を無駄に振りまくことはしなかったし
嫌なことは「いやだ」と言って、初対面の人にもなかなかドライな対応をしてしまっていた。
でも、それが逆に新鮮なのか、極端に嫌われることもなかったように思う。
なんなら「その感じがM心をくすぐるわ」とかいう気持ち悪いコメントをもらうこともあった。非常に気持ちが悪い。
この「M心をくすぐる」「M的にはそういうの大好き」という言葉、すごく嫌い。これを言われた時点で心のシャッターがおりる。
「もっといじってほしい」「もっと冷たくあしらってほしい」みたいな欲が言葉の裏に見えて、私にそのキャラクターを突っ走ってほしいというエゴがしんどい。なんならもう、それ以降はその人をいじらなくなる。
さて、話は逸れたが、このようにどんどんねじ曲がっていった私の心はそのまま変わることなく、とうとう愛嬌を身につけないまま大人になってしまった。
この歳で結婚をしていないことも、親としては気になるようで
「女は愛嬌」とまた言ってくる。
愛嬌を身につければ、結婚につながるとでも思っているんだろうか。
愛嬌で引っかかる男性なんて、誰が求めているんだろう。
このひねくれた心、偏見、自分への憎しみ、慢性的に抱えている辛さを面白がってくれる人の方が断然いい。
他の魅力を理解した上で、愛嬌が加点対象になるならいいだろう。だけど、愛嬌だけでどうにかなることはない。はずだ。
話が度々逸れるが、一方で「愛嬌がある人」へのコンプレックスもある。
このように、「愛嬌」を批判しているということは、そこに何かしら執着していることの現れでもある。
自分がひどく嫌悪している、拒否反応を示している「常識」「恋愛観」「仕事観」みたいなもの、これを読んでいるみなさんもきっとあるだろう。
それはおそらく、拒否反応を示している内容、例えば
・「常識」とされていることに疑うことなく沿うこと
・ある恋愛観にかなった恋愛をすること
・ある仕事観に沿った働きかたを選ぶこと
に対して「自分にはできない」というコンプレックスを感じていたり、その共感できない考えに実はかなり影響を受けていたりする証拠(トラウマとか)でもあると思う。
だから、私も「愛嬌」には結局執着している、と勝手に分析した。
実際、会社でも飲みの席でも、心地よい空気で人の話を聞きながらリアクションし、持ち上げる人を見ると「すごい」と思うし「自分はそんなことできない」とも思う。 そして、そういう人をよく観察してしまう。
でも、もはやここまでくると「適材適所」とか、自分にできないことを無理にしないことを尊重する考え方にシフトしてくる。
悪くいうと「諦め」なのかもしれない。
このnoteでは結局、「愛嬌」に対しての明確な結論はない。
いまだに「女は愛嬌」が頭からこびりついて離れないし、これからもたびたび耳にするんだと思う。
そして、何か吹っ切るような心が持てない限り、ずっと縛られるんだろうな、と思う。これは、親のせいというより、自分の問題だ。
でもこういうことって、きっとみなさんも…ひとつやふたつ持っているはず。
これを読んでいるあなたは、何に縛られて生きているんでしょう?
ちょっと…知りたい。興味あります。
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